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2007年10月の日記
| 3/31 第16回藤沢市民集会 惠谷治さん(ジャーナリスト) |
( 2007.10.24,水 ) |
*写真はあおいのママの撮影です。(左から横田拓也さん、ジャーナリスト・惠谷治さん、北朝鮮難民救援基金理事長・加藤博さん)
*講演要旨レポートです。聞き取りに間違いやカン違いの可能性もございます。どうぞご了承ください。講演は約23分間でした。(主催者より掲載許可をいただいております)
【惠谷治さん・ジャーナリスト】 惠谷です。座らせて話をさせていただきます。今、加藤さんが指摘された内容と私の情勢認識が180度違いますけれど、お話したいと思います。
*3/31 第16回藤沢市民集会 加藤博さん(北朝鮮難民救援基金理事長) http://aoinomama13.seesaa.net/article/62372846.html
この六者協議というものをどう考えるかという時にですね、実は六ヵ国協議が行われている間、私は韓国におりました。韓国の論調は加藤さんがお話されたのとまったく一緒です。「ブッシュは譲歩した、我々は勝利した」と韓国左翼政権、あるいは左翼マスコミはもう大騒ぎです。
それでまず六者協議の合意に至るまでの経過を簡単にお話したいと思います。この合意に至る前提である2005年9月の六者協議の共同宣言、その直後にBDA、バンコ・デルタ・アジアのいわゆる制裁が始まりました。この制裁というのはどういうことかと言うと、「その銀行の口座に出入りする金が怪しい金である、ついてはそういう金を預かっている銀行は取り引き停止ということにするぞ」という懸念指定だったわけですね、この2005年9月の段階では。「懸念がある」というだけで取り引きが停止された。この停止はバンコ・デルタ・アジア自身が行ったわけで、アメリカはいわば脅したという状況です。
しかし現実的にはもう口座取り引きができなくなって、北朝鮮は慌てたと。その数日前には「核の完全廃棄に合意する」というサインをしたにもかかわらず、アメリカがそういうことをしたので「六者協議には出ない」ということで、それから2006年7月にミサイル発射がありました。その少し前、2005年10月に警察庁・警視庁は科協・在日本朝鮮人科学技術協会というものをターゲットにガサ入れをやったと。これはいわば技術制裁と言いますか、「ミサイルあるいは核を開発させるその支援を科協がしている」ということで提訴をしました。
ですから2005年の9月から10月にかけて日米が金融および技術で北朝鮮を追い込んだ。その回答が金正日は暮れに抵抗してミサイルを発射しました。このミサイルもテポドンは失敗してその他は成功、7発のうち6発が成功しました。この6発はすでに実践配備している朝鮮人民軍管轄のミサイルです。これはすべて成功というか通常に設計通り飛んだと。その中には日本をターゲットにしているノドンというものが含まれました。しかしアメリカに届くスカッド、アラスカに届くテポドン2号というのは失敗しました。
そのミサイル発射によって日本独自の経済制裁を行ったと。で、アメリカに届くミサイルが失敗したがゆえに、金正日は次なる手を考えたのが地下核実験です。
2005年の2月に北朝鮮は核保有宣言をして「我々は持っている」と口だけは言っていました。しかしミサイルがもし成功していれば、アメリカに届くミサイルができれば、その宣言で「アメリカに対するミサイル攻撃が可能になる」とこう大宣伝ができたはずです。そうするとアメリカの民主党の議員あたりは「やっぱり米朝に二国間協議をすべきだ」といったような論調が出たかも分かりませんが、とにかくテポドン2号は失敗しました。
それで核実験はやったところがこれもまた見事に失敗しました。ある解説者が言っていましたが「核を持ってなくて、通常爆弾を大量に爆発させたんじゃないか」っていう程度の爆発力しか発揮できませんでしたが、これは間違いなく核実験でした。この核実験によって今度は国連制裁決議が行われています。
とにかく北朝鮮はどんどん追い込まれていく。それ以前も大変な状況で皆さんもご存知の中で制裁が次々とかかっているのが現状です。そうした中で去年の12月に一度六者協議に復帰しましたが、結果的にこの2.13の六者協議の合意が出ました。これももっと一つ言えば、その間に11月のアメリカの中間選挙がありました。これによって共和党は負けて、ブッシュ大統領はある程度の転換を余儀なくされたことは事実です。
*第5回六者会合第3セッションの概要 外務省より http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/n_korea/6kaigo/6kaigo5_3g.html
*続きはブログをご覧になってください。 ↓ ↓ ↓ *3/31 第16回藤沢市民集会 惠谷治さん(ジャーナリスト) aoi blog http://aoinomama13.seesaa.net/article/63367180.html
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| 3/31 第16回藤沢市民集会 加藤博さん(北朝鮮難民救援基金理事長) |
( 2007.10.23,火 ) |
*写真はあおいのママの撮影です。(左から横田拓也さん、ジャーナリスト・惠谷治さん、北朝鮮難民救援基金理事長・加藤博さん)
*講演要旨レポートです。聞き取りに間違いやカン違いの可能性もございます。どうぞご了承ください。講演は約20分間でした。(主催者より掲載許可をいただいております)
【加藤博さん・北朝鮮難民救援基金理事長】 ご紹介いただきました北朝鮮難民救援基金の加藤でございます。(拍手)貴重な場を提供していただきました救う会神奈川に厚く御礼を申し上げます。
今日はですね、普段と違って私は少々辛口な話をするかと思います。皆さんももうすでにご存知の通り、拉致問題を巡る状況は非常に容易ならざる状況だというふうに思います。それは先日の六者協議の中身を見てもわかる通り、アメリカが大きく変身をしました。これは身が変わるという意味でもありますし、気持ちが変わったという意味でもあります。この辺の事情については私よりもはるかに詳しい方がたくさんいらっしゃるかと思いますので詳しくは申しませんが、実際にはそのようになっていると思います。
その典型的な例は“バンコ・デルタ・アジア”(BDA マカオの銀行)で、これは偽札のマネーロンダリングをした張本人なのですが、ここと取り引きをしたと。ここの資金、不法資金の凍結を解除しました。これは北朝鮮にとっては非常に大きなプラスですね。逆に言えばこれがあるために北朝鮮は息の根を止められそうになっていましたが、そういうことがあるにもかかわらずアメリカは直接六者協議のテーマである“核問題”とは関係のない“不正資金の問題”と取り引きをした、ということですね。
これは全体的に今、北朝鮮の核問題やその他の人権問題を解決するための大きな制裁決議が、世界的な規模で行われようとしている制裁決議が、大きく綻んできたということだと思います。綻んだということは、これは昨年の12月の国連総会で北朝鮮に対する人権非難決議案が通りましたが、これは世界が合意して北朝鮮に対する制裁が始まった、という意味でした。
しかしアメリカが六者協議の中で変身をしたことによって、これは非常に有名無実になりかねないという方向に大きく流れていると理解すべきだろうと思います。
*続きはこちらでお読みになってください。 ↓ ↓ ↓ *3/31 第16回藤沢市民集会 加藤博さん(北朝鮮難民救援基金理事長) aoi blog http://aoinomama13.seesaa.net/article/62372846.html
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| 10/21 秋田県民集会・大行進 |
( 2007.10.22,月 ) |
10月21日(日)に秋田県で集会と行進がありました。(主催は救う会秋田)参加された方が行進の写真を送ってくださいましたのでご紹介致します。
北朝鮮に拉致された日本人を救出する為の秋田県民大集会及び大行進
日時:平成19年10月21日(日)正午開場 午後0時半開始 行進は午後2時10分出発予定・秋田駅前中央通り 会場:協働大町ビル(秋田市大町3-2-44 TEL018-863-2111) 登壇:荒木和博さん(特定失踪者問題調査会代表 拓殖大学教授) 秋田県出身並びに秋田県内での特定失踪者の紹介 主催:救う会秋田 共催:秋田県拉致議連 後援:秋田県
集会も行進も何とか早く解決をという皆さんの気持ちが伝わるもので、荒木和博さん(特定失踪者問題調査会代表)の講演や秋田県にゆかりのある特定失踪者三家族のご参加、また、地元の新聞(さきがけ・読売等)テレビ局が数社取材に来てくださったということ、そして救う会からは青森・宮城・神奈川からの参加もあり大変賑やかになったということです。集会の受付ではスタッフの皆さんがブルーリボンなどを配ってくださいました。本当にありがとうございました。
地方のことはニュースでしか知ることができませんので、こうして写真や様子を知らせていただくのは大変ありがたく感謝の気持ちでいっぱいです。ご参加の皆さん、救う会秋田の皆さん、本当にお疲れさまでした。このような催しをしなくてもいいよう、一日も早く拉致問題が解決しますよう祈るばかりです。
*写真を送ってくださったTさん、救う会秋田の松村さん、Sさん、大変お世話になりました。感謝申し上げます。
*救う会秋田HP http://www.sukuukai-akita.net/
北朝鮮拉致問題の早期解決求めデモ
北朝鮮による拉致問題の早期解決を求めるデモ行進が21日、秋田市で行われた。拉致された疑いがある県内関係者の家族ら約40人が「北朝鮮は拉致被害者を返せ!」「拉致問題の棚上げ反対!」などと、声を張り上げた。
デモ行進は、「北朝鮮に拉致された日本人を救出する秋田の会(救う会秋田)」(松村譲裕代表)が主催。参加者たちは「拉致問題の解決は政治の責務」と書かれた横断幕を掲げ、拉致被害者の顔写真を持ちながら約1時間にわたってJR秋田駅周辺を練り歩いた。
1992年1月に失跡し、拉致問題を調査している特定失踪(しっそう)者問題調査会の不明者リストに入っている、北秋田市の会社員松橋恵美子さん(当時26歳)の母チヤ子さんは、「活動が全国にも広がり、問題の解決に少しでもつながってほしい」と話していた。
(2007年10月22日 読売新聞) http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/akita/news004.htm *10/21 秋田県民集会・大行進 aoi blog http://aoinomama13.seesaa.net/article/62135396.html
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| 10/8 NHKスペシャル “北朝鮮帰国船” 〜知られざる半世紀の記録〜 |
( 2007.10.11,木 ) |
*写真は脱北者支援民団センターの資料より。(万景峰号) *10/8放送の特集を文字化テキストにしました。(番組は約55分間)aoi blogに3回に分けて掲載致します。長くなりますが、よろしかったらご覧になってください。
1959年から84年まで続いた帰国事業。9万3千人余りの在日朝鮮人らが北朝鮮へと帰国した。関係者の証言と膨大な秘密文書をもとに知られざる半世紀の軌跡をたどる―。
【ナレーター】 およそ50年前、9歳の時、家族と共に北朝鮮に向った一人の少年がいます。まだ見ぬ祖国に夢を託し、日本海を渡りました。1959年に始まった帰国事業。9万3千人余りの在日朝鮮人とその家族が祖国建設の夢を抱き、北朝鮮を目指しました。北に渡った人々がどのような運命をたどったのか、これまで素顔を明かして語られることはほとんどありませんでした。苦難の半生を過ごした少年が日本に戻り、その体験を初めて明らかにしました。
【脱北した帰国者】 「多くの帰国者が収容所に連れて行かれ姿を消しました。その家族は山奥に追放されました。そこでは人間以下の暮らしを強いられたのです。」
【ナレーター】 祖国の発展を信じ、帰国者を北朝鮮に送り出した人がいます。教え子を帰国させてしまったことを悩み続けてきた朝鮮総連の元幹部。堅く閉ざした重い口を初めて開きました。
【元朝鮮大学副学長】 「帰国した学生に対して、本当にこれは消すことのできない罪を犯したなと・・・、そういう思いで・・・、悩み続けました。」
【ナレーター】 帰国船が北朝鮮の工作活動にも使われたとする秘密文書。NHKが世界各国から入手した1万5千ページに及ぶ帰国事業に関する資料です。「日本にいる北朝鮮の工作員は、帰国船を使って本国と連絡した」と記されています。軍事転用が可能な物資を帰国船で日本から北朝鮮に運ばれたとしています。
日本と北朝鮮を往来し続けた船、北朝鮮帰国船。これまでその実態は厚いベールに包まれてきました。明らかになった資料と関係者の証言をもとに、その知られざる軌跡をたどります。
*続きはブログをご覧になってください。 ↓ ↓ ↓ *10/8 NHKスペシャル “北朝鮮帰国船” 〜知られざる半世紀の記録〜(1) http://aoinomama13.seesaa.net/article/62545392.html *10/8 NHKスペシャル “北朝鮮帰国船” 〜知られざる半世紀の記録〜(2) http://aoinomama13.seesaa.net/article/62648488.html *10/8 NHKスペシャル “北朝鮮帰国船” 〜知られざる半世紀の記録〜(3) http://aoinomama13.seesaa.net/article/62861728.html
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| 北朝鮮から届いた手紙 石岡亨さん |
( 2007.10.10,水 ) |
*2006年1月7日の藤沢市民集会(救う会神奈川主催)にて配布されたRENKの資料より一部を抜粋してご紹介致します。ヨーロッパから1980年に拉致された石岡亨さんが命がけで外国人と思われるどなたかに託され、日本のご実家に届いた手紙の全文です。(1988年9月ポーランド経由で届く)
家族の皆様方、無事に居られるでしょうか。長い間、心配を掛けて済みません。私と松木さん(京都外大大学院生)は元気です。途中で合流した有本恵子君(神戸市出身)共々、三人で助け合って平壌市で暮らして居ります。事情あって、欧州に居た私達はこうして北朝鮮にて長期滞在するようになりました。基本的に自活の生活ですが、当国の保護下、生活費も僅かながら月々支給を受て居ます。
但し、苦しい経済事情の当地では、長期の生活は苦しいと言わざるを得ません。特に衣服面と教育・教養面での本が極端に少なく、三人供に困って居ります。取り敢へず、最低、我々の生存の無事を伝へたく、この手紙をかの国の人に託した次第です。とく角、三人、元気で暮らして居りますので御安心して下さる様、御願い至します。
松木さんの実家(熊本市)、有本君の実家(住所と電話番号の記載)の方へも連絡願います。更に、この手紙を送ってくれた方へ、そちらからも厚く御礼をしてくれる様御願いします。
息子 亨より 平壌にて (資料より一部抜粋)
1980年から1983年にかけてヨーロッパに留学・旅行中の日本人3名が相次いで失踪し、行方不明になりました。札幌市在住の石岡亨さん(男・当時22歳)、熊本市在住の松木薫さん(男・当時27歳)、神戸市在住の有本恵子さん(女・当時23歳)の3人です。
1988年9月に突然、石岡亨さんから札幌の家族のもとにポーランド経由で手紙が舞い込み、3人が北朝鮮にいることが分かりました。手紙には3人のパスポート番号が記され、スナップ写真などが同封されており、本人からのものであることが確認されました。
この手紙を受けた家族たちは、早速、外務省に帰国できるよう北朝鮮政府への働きかけを請願し、またマスコミにも訴えました。各方面から「騒ぎ立てると、日本政府の交渉がかえってうまくいかない」というような忠告(圧力?)もあったといいます。
このヨーロッパでの日本人3名の失踪事件は、「よど号」ハイジャック犯グループも関与した北朝鮮による計画的な拉致事件であることが明らかになっています。
*北朝鮮から届いた手紙 石岡亨さん aoi blog http://aoinomama13.seesaa.net/article/61079614.html
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| 10/7 テレビ朝日「サンデープロジェクト」緊急分析! 大統領と総書記 〜南北首脳会談 水面下暗闘の真相〜 |
( 2007.10.9,火 ) |
*10/7放送の「サンデープロジェクト」の一部を文字化テキストにしました。(番組は約30分間)aoi blogに2回に分けて掲載しております。長めですが、よろしかったらご覧になってください。
「あっ、金総書記が見えました」(今月2日平壌)先週、南北首脳会談で突然、盧武鉉大統領を出迎えて驚かせた金正日総書記。「一日(滞在を)延ばすことを提案します」(金正日総書記)「警護や儀典とも協議しなければ・・・」(盧武鉉大統領)大統領に滞在延長まで提案、この謎の行動を解くカギは7年前の首脳会談にあった。我々は大統領に随行して訪朝した大物の取材に成功。歴史的会談の裏では壮絶な死闘が繰り広げられていた。「金総書記は『まず統一問題を課題にしよう』と提起した」
今回、盧大統領が観覧したマスゲーム、これにも重大な意味があった。「金日成廟の参拝はできないので、マスゲームの観覧を受け入れた」(ジャーナリスト)7年前、金総書記の狙い通りに行動し策にはまった政治家がいた。「完全に金正日総書記の演出にしてやられて術中にはまってしまったんじゃないかと・・・」(同行取材記者)南北首脳会談で何が起きたのか。水面下の暗闘、徹底追跡する―。
*10/7 テレビ朝日「サンデープロジェクト」緊急分析! 大統領と総書記 〜南北首脳会談 水面下暗闘の真相〜(1) http://aoinomama13.seesaa.net/article/60937717.html *10/7 テレビ朝日「サンデープロジェクト」緊急分析! 大統領と総書記 〜南北首脳会談 水面下暗闘の真相〜(2) http://aoinomama13.seesaa.net/article/61128232.html
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| 北朝鮮の「拉致」徹底追及を 国内のスパイ網摘発を急げ(2) |
( 2007.10.8,月 ) |
*思想新聞の記事(2006年2月)をテキストにしました。2回に分けて掲載しております。今回が最終回です。
【思想新聞 平成18年(2006年)2月1日より】
*北朝鮮の「拉致」徹底追及を 国内のスパイ網摘発を急げ(1) http://aoinomama13.seesaa.net/article/60439978.html
続き
「よど号」犯と共謀 次々に日本人を拉致
欧州における日本人拉致事件で名前がわかっているのは、朝鮮労働党対外連絡部の金ユーチョル容疑者(現在、67)である。彼は欧州各国で北朝鮮大使館に勤めた経験があり、「よど号」グループとともに日本人を騙して北朝鮮に拉致した。
有本恵子さんの拉致を告白した八尾恵さん(七七年訪朝、「よど号」犯・柴田泰弘と結婚、その後、離婚)によると、ロンドンに留学していた有本恵子さん(当時、23)を言葉巧みに市場調査のアルバイトに勧誘し、デンマークに誘い出して八三年七月、コペンハーゲンで金容疑者と「よど号」犯の安部(魚本)公博容疑者に引き合わせ、モスクワ経由で北朝鮮に拉致した。
金容疑者は欧州における北朝鮮の大物工作員として西側情報機関から常時、監視されており、それでコペンハーゲンのカストロップ空港で有本さんといっしょにいる証拠写真を撮影されていた。
八尾さんの告白によると、八〇年四月から六月にかけて、「よど号」犯の妻、森順子らがスペインにおいて松木薫さん(当時、26)と石岡亨さん(同、22)を騙して旅行し、そして拉致した。「よど号」グループが北朝鮮の工作機関と一体となって拉致事件を引き起こしていたのである。
欧州経由で拉致された最初の人物は田中実さん(当時、28)である。田中さんは七八年三月、非公然組織「洛東江」メンバーが店長を務めるラーメン店で働いており、この店長から海外旅行に誘われ、ウィーンから北朝鮮に拉致された。七〇年代から欧州経由の拉致が行われていたのだ。
核・技術スパイが日本で暗躍
金正日総書記は拉致事件について「一部の妄動主義、英雄主義者による拉致」(〇二年九月の日朝首脳会談)とし関係者を処分したかのように言っているが、これが真っ赤なウソであることは一層、明らかになった。今なお日本国内にスパイ工作網が張り巡らされていることは明白なことだ。
たとえば昨年十月、警視庁公安部は医薬品製造会社「エムジー製薬」社長の玄丞培容疑者ら二人を薬事法違反容疑で逮捕し、同社や在日朝鮮総連の関連施設など十一カ所を家宅捜査したが、玄容疑者は在日朝鮮総連の傘下団体「在日朝鮮人科学技術協会」(科協)の役員や財団法人「金萬有科学振興会」の理事を務める朝鮮総連系組織の幹部で、これらの組織がスパイ活動に従事している。
〇三年に「科協」幹部を通じて軍事転用が可能なジェットミル(超微粉砕機)を不正輸出した工作機械メーカーが摘発されているほか、東京・大田区の在日朝鮮人系企業が核開発に使われる「直流安定化電源装置」の不正輸出を企てる事件も発覚している。同五月に米上院小委員会の公聴会で北朝鮮から亡命した元技師は「北朝鮮で製造するミサイル部品の90%は日本から輸出されていた」と証言している。
こうした“輸出”を担当しているのが「科協」などの在日朝鮮人組織であり、両組織とも科学技術スパイの拠点となってきた。そればかりか、「金萬有科学振興会」が事務所を置く北朝鮮系総合病院「西新井病院」(東京都足立区)を“隠れ家”にした北朝鮮スパイ事件が続発している。前述の「足立事件」や「西新井事件」がそうだ。
拉致の徹底究明とともに国内のスパイ工作網を一掃しなければならない。
終わり
*北朝鮮の「拉致」徹底追及を 国内のスパイ網摘発を急げ(2) aoi blog http://aoinomama13.seesaa.net/article/60615005.html
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| 北朝鮮の「拉致」徹底追及を 国内のスパイ網摘発を急げ(1) |
( 2007.10.7,日 ) |
*思想新聞の記事(2006年2月)をテキストにしました。2回に分けて掲載致します。
【思想新聞 平成18年(2006年)2月1日より】
「辛光洙」ら実行犯明白に 日朝交渉で妥協するな
拉致事件の真相が徐々に明るみになってきた。一九七七年に横田めぐみさんが拉致された事件で、原敕晁さんを拉致したとして国際社会指名手配されている辛光洙(シン・ガンス)容疑者が曽我ひとみさんに「拉致したのは私だ」と語っていたことが判明、これで辛容疑者が三件四人の拉致事件に関与していることがわかった。また、蓮池薫さんらを拉致したのは「朴」と名乗る人物で、行方不明の小住健蔵さんにすり替わっていた大物スパイであることも明らかになった。北朝鮮はすでに拉致に関与した特務機関員を処分したとしているが、これが真っ赤な嘘であることが明白になったと言える。政府は辛容疑者らの身柄引き渡しを要求し、北朝鮮の責任を徹底追及すると同時に、現在もなお日本国内で張り巡らされているスパイ工作網を摘発する必要がある。日朝交渉で安易な妥協を行ってはならない。
拉致被害者の曽我ひとみさんの証言によると、七八年八月に拉致され、平壌郊外の「招待所」に連れて行かれ、ここで七七年十一月に拉致された横田めぐみさんと八〇年頃まで共同生活をしていた。この間、辛容疑者は数学や物理、思想教育を行っていたが、曽我さんに「めぐみさんを拉致したのは自分だ。自分が連れてきた」と話していたと証言しているという。
これで辛容疑者の拉致工作全貌が一層、明らかになった。辛容疑者は七六年九月から八〇年四月までの約三年半、平壌郊外の招待所で工作員の実務教育を担当(逮捕された韓国ソウル地裁判判決)。この間、招待所からたびたび日本に潜入し、任務遂行後に帰還する対日工作に従事していた。
七七年十一月に横田めぐみさんを拉致(新潟市)したほか、七八年七月に地村保志・富貴恵さん(福井県小浜市)、八〇年六月に原敕晁さんを拉致(宮崎県・青島海岸)しており、三件四人の拉致を実行した。
日本に潜入し拉致繰り返す
これまでの捜査によると、辛容疑者は一九二九年、静岡県生まれ(現在、76)。その後、兵庫県尼崎市、富山県高岡市に移り、高岡工芸学校に進んだが、終戦で家族そろって母国に渡った。朝鮮戦争が勃発すると北朝鮮の義勇軍に入り、休戦後、ルーマニアのブカレスト工業大学に留学。帰国後は科学院の研究士となり、七一年に在日経験と工業知識が見込まれて、対日工作要員に抜擢された。
そして七三年七月から七六年九月まで日本に潜入、北朝鮮に戻った後、招待所の教官になり、そこからさらに対日潜入を繰り返し、拉致を行っていたことになる。
原さんを拉致した後、八一年十一月に原さん名義のパスポートを取得し、原さんにすり替わって日本国内で工作を続け、八五年二月に韓国に入ったものの、スパイ容疑で逮捕。八六年に死刑が確定した。だが、2000年に金大中大統領の太陽政策の恩赦で釈放され北朝鮮に送還。現在、辛容疑者は北朝鮮で「非転向の英雄」ともてはやされている。
辛容疑者とともに拉致に関与していた工作員として金世鎬容疑者(現在、77)が判明している。北朝鮮の対外情報調査部の工作員で七七年九月、久米裕さん(当時、52=最初の拉致認定)を拉致した実行犯。警視庁公安部は〇三年一月に国外移送目的誘拐容疑で指名手配している。
在日組織が犯行に加担
ここで注目すべきは、日本国内に在日朝鮮人らを中心に北朝鮮の工作員の受け皿となる対日スパイ網が張り巡らされていたという点である。産経新聞(一月十日付)によると、金容疑者は拉致犯グループの「指揮官」で、在日朝鮮人の非公然組織「洛東江」と連携して資金調達などを担当してきたという。
「洛東江」は七〇年頃、韓国政府の転覆を目指して北朝鮮の直接指令で組織されたもので、日本を足場に対韓・対日工作に関わってきた。北朝鮮は六八年一月に武装スパイを韓国に送り込み、大統領府である青瓦台を襲って朴正煕大統領の暗殺を企てたが失敗。韓国に直接スパイを送り込むことが困難になったため、日本経由のテロを思い立ち在日朝鮮総連に「洛東江」などの非公然組織を作らせるようになったとされる。
そして朴大統領を暗殺する実行犯としての在日韓国人・文世光を選抜し、在日朝鮮総連生野支部政治部長だった金浩竜らを使って訓練や武器調達を行い、日本人パスポートを取らせて韓国に渡らせ、七四年八月に朴大統領暗殺未遂事件(大統領夫人死亡)を引き起こしている。
七六年二月、東京学芸大学の学生だった藤田進さん(当時、19)は埼玉県川口市の自宅を出た後、行方不明となっており拉致の疑いが濃厚である。〇四年十一月、特定失踪者問題調査会に「藤田進さんの拉致に関与した」との告白がなされているからだ。
告白したのは在日朝鮮総連系「西新井病院」で車の運転手をしていた男性で「一九七六年前後、埼玉、千葉、東京方面で一人の男性が拉致された」「若い男性の拉致を手伝わされた」「千葉県にある西新井病院の関連施設に監禁されていた男性を複数の仲間と一緒に車で糸魚川(新潟県)まで運び、別の人物に引き渡した」「ほかにも女性二人の拉致を手伝わされた」と述べている。
この女性二人は千葉県市原市の当時、高校生だった関谷俊子さん(当時、17)と友人の遠山常子さん(同、17)と見られている。
この時期、辛容疑者は日本に潜入しており、金容疑者も七七年から八一年までの四年間に六回潜入していることが確認されている。
KAL機爆破 日本から支援
もう一人、拉致実行犯として判明しているのが「朴」と名乗る大物工作員である。「朴」の写真を見た蓮池薫・祐木子さんが拉致実行犯の一人と確認した。
調べによると、「朴」は七〇年夏頃、秋田県の海岸から日本に潜入し、七二年に東京・山谷で日本人男性にすり替わって工作網作りを行っていたが、七六年七月にこの男性が死亡したため、北朝鮮に一旦帰還。その後、辛容疑者と同様にしばしば日本に潜入し拉致を実行。七九年に日本に潜入すると、八〇年六月に北海道出身の小住健蔵さんにすり替わり、成りすまして工作活動を行っていた。
小住となった「朴」はレーガン米大統領が訪日した際、暗殺工作を図ったため追及の手が伸び、八三年二月にマレーシアに逃亡、それ以降、行方が知れない。八五年三月に摘発されたスパイ事件「西新井事件」の首謀者だったと確認されている。本物の小住健蔵さんは未だ行方不明で、拉致の可能性が濃厚である。
この「朴」の補助工作員だったのは、「宮本明」という日本名を名乗っていた李京雨という在日韓国人である。七一年九月に警視庁が摘発した北朝鮮スパイによる「足立事件」に関わっていたが、証拠不十分で逮捕を免れていた。
李は七八年六月に拉致された田口八重子さんの働いていた東京・池袋の飲食店にしばしば通っており、田口さんの拉致に関わった可能性が高い。金容疑者とも接触があり、在日工作員としてさまざまな工作に関わってきたようだが、「西新井事件」発覚後、行方をくらませた。
だが、「宮本明」の名前は八七年十一月の大韓航空機爆破事件で登場した。同事件は「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」の偽装日本人親子が同機に爆弾を仕掛け爆破させたものだ。この二人の偽装パスポートを調達していたのが李だった。「蜂谷真一」は朝鮮労働党調査部に所属する特殊工作員である金勝一、「蜂谷真由美」も同部の金賢姫。
金賢姫は八〇年四月からスパイ養成機関「クムソン政治軍事大学」で一年間、政治思想理論と撃術(格闘技)と射撃術、行軍などの軍事訓練を受けた後、八一年四月から八三年三月までの二年間、「平壌トンブクリ招待所」で田口八重子さんと見られる「李恩恵」と一緒に生活し、日本語と日本の風習、生活礼節など、日本人に偽装するための日本人化教育を受けた。
蜂谷真一さんは東京で実在の人物で、「宮本明」を名乗る人物からパスポート取得を勧められて作成、旅行を誘われた際、パスポートを一時預けており、その時、データがそっくり盗まれ、偽造パスポートが作られた。
在日韓国人である李は北朝鮮から潜入する工作員を補助し、「洛東江」などの非公然の在日朝鮮人組織とのつなぎ役を務め、工作資金を工作員に回していた。李で象徴されるように在日組織は拉致だけでなく北朝鮮の非道なテロ工作にも深く関与してきたのだ。
最終回(2)に続く
*北朝鮮の「拉致」徹底追及を 国内のスパイ網摘発を急げ(1) aoi blog http://aoinomama13.seesaa.net/article/60439978.html
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| りんごのお菓子 |
( 2007.10.6,土 ) |
あおいのママは子どもの頃からりんごが大好きです。そのまま皮をむいて食べるのも好きだけど、すりおろしたり甘く煮て食べるのも大好き!特に酸っぱいりんごは即、煮りんごにしてしまいます。酸っぱいほどまたおいしいんですよね〜。
前にもアップルパイを紹介しましたが、りんごは煮たらだいたいアップルパイを作ります。実家にいた頃(高校卒業まで)、お歳暮とかでりんごをたくさんいただくと母から「作ってよ」ってよく言われ、父や妹たちも喜んで食べてくれました。あの頃は今のように冷凍パイシートがなかったので、パイ生地から作っていました。時間も手間もかけ、そしてやはり愛情がないとできないのが手作りお菓子、ホントよく作りました。結婚してからは便利なパイシートで作っています。(パパ、ごめんね〜!)
上の写真は、地方に住む私の友人からいただいた大きな真っ赤なりんごです。早速煮てパイシート2枚を重ねた大きなパイを作って、二人でパクリと食べちゃいました!あ〜おいしかったです〜!!
○○さん、とってもおいしいりんごをありがとうございました。食いしん坊の私たちには本当にうれしい贈り物で感謝感激です。これからもますます仲良しでいてくださいね。(紹介が遅くなってしまってごめんなさい)
*煮りんごはビンに詰めてヨーグルト用に保存します。(ヨーグルトに混ぜるとホントおいしいですよね)
*りんごのお菓子 aoi blog http://aoinomama13.seesaa.net/article/60279664.html
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| めぐみ 13年間のアルバム(9)失踪直前“最後の一枚” |
( 2007.10.4,木 ) |
*漫画アクション2005年1月21日号〜7月19日号で「めぐみ」(作画/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。次回が最終回です。(全10回)
【めぐみ 13年間のアルバム より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)
*めぐみ 13年間のアルバム(8)1本のラケット http://aoinomama13.seesaa.net/article/59604152.html
続き
第九回 失踪直前“最後の一枚”
「この顔が一番似ています」新潟空港で撮った写真 そこに写っためぐみを指さしながら安明進はこう告げたのだ。
*昭和52年10月、新潟空港にて 「この顔が一番似ています」
その亡命・元工作員は、はっきりと言った。拉致1カ月前に、新潟空港で撮った写真(下)。そこに写っためぐみを指さし、安明進はこう告げたのだ。「私が北朝鮮で見た女性と、この写真がよく似ています」と。横田夫妻とは初対面だった。
新たな激動が幕を開けたのは、この対面より約2カ月前のことだ。
1997年1月22日。行方不明のめぐみは拉致され北朝鮮にいる―思いもよらぬ情報が、横田家にもたらされた。失踪から20年が経っていた。嵐にも似た日々の始まり。新聞や雑誌が一斉に実名報道し、国会でも取り上げられたのが2月3日。
さらに、その翌日たまたまソウルでその記事を見た安明進の口から、新たな証言が飛びだした。
「(記事中の写真の)この女性に見覚えがある」と。
安明進は北朝鮮の工作員養成機関(金正日政治軍事大学)に在学中、そこで、めぐみに似た女性を何度か見たと、訪韓中の取材陣に語ったのだ。20歳代半ばに見えたという。目撃したのは、拉致から10年以上経った時期。年齢的にも一致している。
その安明進に会うために、横田夫妻は急遽ソウルへ飛んだ。記事とは別のめぐみの写真を携えて。勿論、空港で撮った写真も。それが、一番新しい、めぐみだ。父の滋にとって、自分で撮った一番最後のめぐみ。
対面が実現したのは3月15日。その席で、安明進ははっきり言ったのだ。自分が北朝鮮で見た女性は、他のどの写真より、この空港の女性に似ていると。めぐみが北朝鮮にいるという話は、やはり本当なんだ・・・夫妻は「拉致」への確信を深めた。
その空港の写真。めぐみが新潟空港を訪れたのは、札幌の自宅に帰る祖父(滋の父親)を、一家で見送るためだった。1977年10月。拉致は翌月のことだ。めぐみの横に立っているのは見送りに駆けつけた叔父(滋の弟)。めぐみの双子の弟、拓也と哲也は野球帽をかぶっている。
広島カープの赤い帽子。横田家が広島に住んだのは、カープが初優勝し「赤ヘル」ブームに沸いた時期だった。その地を離れるとき、弟たちは見送りの人からカープの帽子をプレゼントされた。「広島のことを、いつまでも忘れないで」と。それを新潟でも愛用し続けていた。
めぐみの顔は、短く丸い髪に包まれて、やわらかく微笑んでいる。それまでずっと長くしていた髪を、直前の夏に切った。めぐみにとっては初めての美容院体験。それに付き添った母の早紀江には、この短い髪のめぐみこそ、あの日以来、探し求める面影となった。失踪直後の日々、「めぐみちゃん、どこにいるの?」と町じゅうを探し回り、幼い弟たちの手をひいて海岸をどこまでも歩き続け、追い求めた面影―。
ソウルで安明進と会った横田夫妻が帰国して間もない3月25日。日本各地にいた拉致被害者の家族が、初めて結集した。「家族会」の結成。救出へ、新たな闘いの始まりだ。
まるでそれを見届けるかのように翌日、北海道で祖父が息を引き取った。行方不明となった孫を、ずっと案じ続けていた祖父。めぐみとは、新潟空港での別れが最後だった。
*第十回 新しいアルバム に続く
*めぐみ 13年間のアルバム(9)失踪直前“最後の一枚” aoi blog http://aoinomama13.seesaa.net/article/59773410.html
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| めぐみ 13年間のアルバム(8)1本のラケット |
( 2007.10.3,水 ) |
*漫画アクション2005年1月21日号〜7月19日号で「めぐみ」(作画/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。(全10回)
【めぐみ 13年間のアルバム より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)
*めぐみ 13年間のアルバム(7)1977年という年 http://aoinomama13.seesaa.net/article/59024454.html
続き
第八回 1本のラケット
1本のラケットが、25年の時を隔て、海を越え、突然現れた。キム・ヘギョンさんが持参したのだ。「母親の思い出の品」として。
午後6時25分頃。めぐみはバドミントンの練習を終えて、寄居中学の正門を出た。部活の仲間と3人で。1977年11月15日、火曜日。いつものようにラケットを入れた赤いスポーツバッグと学生カバンを手に。
帰宅の道は、日本海へと向う直線の道路だ。途中で1人が右に折れた。次の交差点で、2人めがバイバイと言って左に曲がる。6時35分頃だった。家までは、あと3〜4分。
だが、めぐみは遂に帰ってはこなかった。
中学生になっためぐみは、クラブ活動として選んだバドミントン部で一生懸命、練習に取り組んでいた。当時、寄居中学は強豪として知られていた。失踪2日前の11月13日、めぐみは新潟市内の中学校新人戦に出場。ダブルスで5位に終わったが、市の強化選手の1人に選ばれた。
身長はクラスで高いほうから3番目。153センチの母・早紀江を既に1センチ上回っていた。その体格が見込まれたのか、思いがけず強化選手に選ばれて、めぐみ自身はそのことを少し重荷に感じていた。勉強の成績は学年でも上位だったが、部活に時間を割くなかで、2学期の中間テストは順位をやや下げていた。
行方不明になったとき、早紀江の頭に真先に浮かんだのは、ここ2〜3日の、めぐみのそんな“迷い”だった。家出か?それとも思い詰めた果てに・・・。北朝鮮による拉致だなんて、想像もつかない時代だ。
*昭和52年、寄居中学の体育館にて(後列右から4番目)。 前頁の写真は、失踪後に顧問の先生がくれたもの。滋も早紀江も初めて見る写真だった。ピンクのラケットを手にしためぐみ(後列右から4番目)は、体を少し横に向けている。
その姿を目にしたとき、早紀江はとっさに思った。「ああ、めぐみちゃんは、私の言葉を覚えていたんだ」と。成長期で少し太り始めたことを気にしていためぐみに、早紀江はこう教えたことがあったからだ。
「写真を撮るときにはね、ちょっと体を斜めにするといいのよ。そうすれば少しスマートに見えるでしょ」
今はいない娘とのやりとりが、まざまざと甦ってきた。
めぐみが中学を卒業するはずの時期、早紀江は1人でよく浜辺に立った。波間に浮かぶ遠いブイ。その赤い色を、いつまでも見つめ続けた日もある。あの日、めぐみが持って登校した、赤いスポーツバッグに思えてしかたなかったからだ。
やがて寄居中学に入学した弟の拓也は、姉と同じバドミントン部を選び、それを大学まで続けた。
その頃、北朝鮮では、楽器を習うように言われためぐみが、バイオリンを選んでいた。蓮池夫妻らの証言によれば、その理由をめぐみは、こう語ったという。
「弟(小学生の拓也)が習っていたから」と。
―そして、あの、2002年9月17日。日本中に衝撃を与えた、小泉初訪朝の当日。
1本のラケットが、25年の時を隔て、海を越え、突然現れた。平壌のホテル。梅本和義公使と面会したキム・ヘギョンさんが持参したのだ。「母の思い出の品」として。
我々は、必ず、取り戻さなければならない。そのラケットの真の持ち主を。海のこちら側に。
*第九回 失踪直前“最後の一枚” に続く
*めぐみ 13年間のアルバム(8)1本のラケット aoi blog http://aoinomama13.seesaa.net/article/59604152.html
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| ケーキはサラス |
( 2007.10.2,火 ) |
あおいのママとパパは昨日の夜(1日)、外食をしました。パパはここのところずっと仕事が忙しく、帰宅するのが真夜中になってしまうこともしばしばありました。でも昨日はわりと早く帰宅できたので二人で食事をし、その後カフェでケーキを食べました。
上の写真はパパが頼んだプリンタルトです。ここのケーキは少し大きめなので、全体的に甘さはひかえめになっているのですが、それでも最後の方はちょっと甘かったかなぁ〜って思います。でもおいしかったです。
下の写真はママが頼んだケーキです。名前は何と“サラス”なんです。私が2003年頃使っていたハンドルネームが“サラス”でした。(大好きなサッカー南米チリ元代表選手の名前)アーモンドクリームをスポンジではさみ、全体にスライスで包んだふんわりしたケーキで、思ったよりもあっさりしていてとてもおいしかったです。感激でした!!
やっぱり夫婦で食べれば何でもおいしいですよね。食欲の秋が来てしまいダイエットができない私たちですが、それでもまたおいしいケーキを二人で食べようと思います。パパ、いつもありがとう。(^^)
*ケーキはサラス aoi blog http://aoinomama13.seesaa.net/article/58297303.html
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