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2007年09月の日記

3/31 第16回藤沢市民集会 川添友幸さん(救う会神奈川会長)
2007.9.30,日

*写真はあおいのママの撮影です。(左から川添友幸さん、拉致被害者 横田めぐみさんの弟・拓也さん、ジャーナリスト・惠谷治さん)

*川添さんの挨拶要旨です。聞き取りに間違いやカン違いの可能性もございます。どうぞご了承ください。

【川添友幸さん・救う会神奈川会長】
 こちら藤沢での集会は半年ぶりですが、横浜の方で今年1月に神奈川県民集会をやりました。あれ以降に色々と動きがありまして、これはご存知の方もいると思うのですが、TBSの報道特集に福留貴美子さんの問題で私もちょっと出させていただきお話したという経緯がありました。

 実はちょっと福留さんの話で気になる告白がありまして、先週、平壌のよど号グループが報道機関の方に“福留さんに関する見解”とかいう文章を送りつけてきました。(*下記にあり)ちょっとまだ現物を見ていないのですが、その中に何かうちの会のことが書いてあったということで、ついによど号グループから名指しされてしまったかなという感じです。

 昨年6月にこちらで福留貴美子さん救出の集会をやりまして、皆さんに来ていただいたのですが、あの時でも会場の中によど号関係者がいたような様子で、あの時のやりとりが少し出てくるようですけど、よど号の連中から名指しされたことは光栄なことだと思っております。拉致問題解決のために我々も活動していきますので、皆さま、今後とも支援の方よろしくお願い致します。(大拍手)

*'06 6/3 福留貴美子さん拉致事件を考える集い
http://aoinomama13.seesaa.net/article/19002268.html
*'07 1/14 神奈川県民集会レポートについてのお知らせ
http://aoinomama13.seesaa.net/article/31479029.html

*平壌 かりの会からの見解は下記にあります。その中で指摘している報道特集やAERAの記事をテキストにしております。ご参考にしてください。
 ↓ ↓ ↓
*'06 11/12 TBS「報道特集」“拉致”なのか よど号犯の妻
http://aoinomama13.seesaa.net/article/27453995.html
*もう一つの拉致 福留事件の30年 〜「よど号犯」の妻になった24歳〜('07 1/15 AERAより)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/34173424.html
*よど号グループと北朝鮮 福留貴美子さんの軌跡
 ('07 1/15 AERAより)

http://aoinomama13.seesaa.net/article/35614172.html
*拉致問題で新事実 福留さんに北との接点 ('07 3/12 AERAより)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/36333834.html

「福留貴美子拉致事件」に関する私たちの見解
―「もう一つの拉致」を煽るマスコミ―

 いま関西TVのねつ造番組垂れ流しが事件化されるなどモラル感覚のマヒしたマスコミに対する社会のきびしい眼が向けられています。そのような中で昨年末以来、TBSを皮切りに、TV、雑誌などマスコミを通じて、私たちの一員であった岡本武の夫人、福留貴美子さんが実は拉致被害者だったという「もう一つの拉致」事件が大々的に報道され、今も執ように続いています。私たちは当人自身と生活を共にし事実を知る当事者として、これもまた重大なねつ造報道であることを訴えたいと思います。

 事の発端は、福留さんの出身地でもない無関係の「拉致被害者家族を救う会・神奈川」がまず動き、これを受けて「救う会・高知」が高知県警に「もう一つの拉致」として訴え、これが受理されたことですが、これ以降、一気にマスコミの宣伝攻勢が開始されました。

 「正論」など、ハナから「反北朝鮮」のためのような記事にはいちいち反論する必要も感じませんが、「週刊AERA」や「報道のTBS」といったリベラル、良識派と言われる媒体までがまじめに取り上げるとなると、国民世論に与える影響力からして事態の重大性を感じ、真実を明らかにするため文書の形で公表するに至った次第です。
 
■「拉致」の根拠は?
 福留貴美子さんが北朝鮮に拉致されたという唯一の根拠は、「だまされて連れて行かれた」というものです。「モンゴルに行くはずだったのにここ(北朝鮮)に来てしまった」と福留さん本人から聞いたという「八尾恵証言」に由来するものです。つまり「モンゴルに行かせてあげる」とだまされて北朝鮮に拉致されたというのですが、この根拠自体が理知に合わないものです。

 モンゴル観光と朝鮮(北朝鮮)渡航とでどちらが困難かと言えば、常識的には朝鮮渡航の方が困難です。朝鮮観光も可能な現在とは異なり、当時の日本のパスポートには「except North Korea」と明記され、一般の日本人がとうてい行けない国交のない国、それが朝鮮でした。通常のパスポートで行けば、「旅券法違反の罪」に問われるリスクを背負うのです。そんなリスク覚悟で朝鮮行きを決心するのは、よほど本人の強い目的と意思がないかぎり不可能です。誘われたからとおいそれと行く気になれる国ではなかったはずです。かたやモンゴルは社会主義国とはいえ、ソ連同様に国交もあり観光旅行も可能な国、金さえ出せば誰でも行ける国です。記事通り実家が地方の資産家だとすれば、福留さんが何がなんでも行きたい国だというモンゴルへの観光はけっして困難だとは思われません。自分でも行けるのに、「国禁」を犯すリスクを負ってまで「北朝鮮経由でモンゴル観光」など、誰が考えるでしょうか。

 またひとつの疑問は、「拉致された」という福留さんが80年3月に日本に入国し、かなりの長期間、滞在しているという事実です。

 横浜で友人にも会い(「AERA」)、高知の実家の母にも電話を入れている(「正論」)と記事にはあります。拉致された人なら、いくらでも逃亡する機会があるのにと思うのが普通の発想です。が、その常識は「この時点で一児の母、逃げようにも逃げ出せなくなっていただろう」(「AERA」)という「子供人質」説で簡単に否定されています。しかしだまされて北朝鮮に連れて行かれたという人が、「自由の身」になった母国、日本に入国した絶好の機会に、誰にもその理不尽な境遇を訴えないということの方が不自然ではないでしょうか。子供の身を案じたとしても、「拉致」を訴えたことを秘匿することに警察は協力してくれるはずです。「監視」がついていたというのもいかにもの話ですが、一人の人を24時間「監視」するというのはほぼ不可能に近いことではないでしょうか。また、彼女はそんな労力を払ってまでして「工作」させるほどの重要な工作員だったのでしょうか。
 
■漁船で逃亡企画?
 「(岡本夫妻は)漁師に酒を飲ませて酔わせ、漁船を奪って逃亡を図り、北朝鮮当局に捕まった」、今も強制収容所にいる、だから救出を、と記事は訴えています。これも「八尾恵証言」に基づくものとのことです。

 おそらく東海岸での話だと思いますが、海辺には家族連れで行って二人の娘も同行しており、ピョンヤンに家族連れで帰ってきています。ですから逃亡中の海上で「北朝鮮当局に捕まった」という話は明かな嘘です。

 また船には素人の岡本夫妻が「漁船を奪って逃亡を図る」などという筋立て自体が不自然です。ましてや海とはいえ今も「戦争状態」同然の朝鮮には南北軍事境界線があり、それを突破しての逃亡は、一触即発の軍事対決の最前線に突っ込み、自ら銃火を受ける危険を伴います。漁師と一緒に酒を飲んでいたという話は聞いたことがありますが、おそらくそれを小耳にはさんだことから発した「八尾恵証言」だろうと思います。朝鮮の現実からは考えられないことです。

 「AERA」の記事の結論として「救出」を訴える必要から出たことだと思いますが、この「漁船逃亡」説には明らかに蛇足と言える尾ヒレがつけられています。

 「(岡本夫妻は)逃亡を企てたが拘束され、収容所に入れられた。私が保証金を払って助け出し、現在は地方の外国語学院で日本語教師をしている」と証言した国会議員元秘書なる人物がいるというのです。一介の日本人が国交のない朝鮮で、しかも所在さえ不明の「収容所」に保証金を払って救出したなどという妄言にどれほどの信憑性があるのでしょうか。こんな蛇足までつけ加えねばならない「AERA」記事自体の信憑性が疑われるものです。
 
■明かなねつ造写真は?
 さらに「AERA」1月15日号の同記事にはねつ造が明かな写真が堂々と掲載されています。

 1986年にウィーンで撮影されたという土井たか子元社会党委員長を囲むその写真の中に、私たちに合流した小川淳がいるという説明が付けられています。しかし、写真で指摘された人物は小川ではなく別人であり、土井氏には会ったこともないと当の小川淳が明言しています。これは「AERA」の明かな失態です。

 これは肖像権という人権侵害問題でもあります。同誌の福留さんの記事に小川のことはなにも触れたものはないのに、わざわざ小川のねつ造写真まで掲載した嘘はいったいなんのためなのか勘ぐらざるをえません。写真には「よど号に合流したナゾの人物」として小川淳の説明が付けられていますが、また「もう一つの拉致」を暗示しようということなのでしょうか。
 
■真実追究と良心を
 「AERA」のこの記事を担当する同編集部K記者には私たちがピョンヤンで会っています。記事にもそのことが触れられています。K記者は身分を偽り、同行のNGO関係者は会見の席をホテルの外国人専用の、すなわち朝鮮の人が出入りしない地下のカラオケ個室に設けました。なにか怪しげな「会見」であったことを記憶しています。案の定、記事には、「2人を短髪に白のスーツ、鋭い目の大柄な男が待っていた」といかにもの表現がありますが、代表団の要請で正式に会見するのですから案内人がつくのは朝鮮では通常のことで、その人は短髪でも白スーツでも鋭い目でもなかったと思います。また「2人は高級外車に乗り込み」とK記者は書いていますが、私たちは自家用の中古の白のコロナを自分たちで運転して帰っただけです。こうした取材の仕方、こうした記事の書き方を平気でできる人が「拉致被害者の味方」であることは、ご本人たちにとっても不幸なことだと思います。福留さんのお母さんにも生前、取材したようですが、お母さんが生きておられたらこのような記事を書けたのかどうか疑問です。

 最後に、マスコミ関係者には、国民世論をつくる責任を負うだけの自覚と覚悟、何よりも真実のみを追究する職業的自負心と、そして良心を望みたいと思います。
 
2007年3月 ピョンヤン かりの会

*3/31 第16回藤沢市民集会 川添友幸さん(救う会神奈川会長) aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/59402838.html

めぐみ 13年間のアルバム(7)1977年という年
2007.9.29,土
*漫画アクション2005年1月21日号〜7月19日号で「めぐみ」(作画/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。(全10回)

【めぐみ 13年間のアルバム より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)

*めぐみ 13年間のアルバム(6)再び5人そろっての旅を
http://aoinomama13.seesaa.net/article/58948021.html

続き

第七回 1977年という年

めぐみは卒業式の謝恩会で『流浪の民』を歌う。独唱したソプラノの歌詞は「なれし故郷を放たれて」だった。

 横田家にとって絶対忘れられない年・・・1977年、昭和52年。前年末に福田内閣が誕生し、北海道では有珠山が爆発、巨人の王貞治が756号の本塁打記録を作った年だ。

 その1977年の始まりは、横田家にとっても穏やかなものだった。正月、めぐみは玄関前で雪を背景に和服姿の写真を撮っている(左)。早紀江が「お母さんの若いときの着物があるから、お正月だし、それを着て写真に撮っておかない?」と言いだして写したものだ。

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*昭和52年正月、新潟の自宅にて

 赤と白の大きな市松模様。髪は和服用に後ろに束ねた。めぐみは「わあ、私って、こんなに素敵だったんだあ」と、はしゃぎ、早紀江は「あら、厚かましい」と笑った。小学校最後の冬休みのことだ。

 3月、コーラス部だっためぐみは卒業式の謝恩会で『流浪の民』を歌う。独唱したソプラノの歌詞は「なれし故郷を放たれて」だった。

 4月、新潟市立寄居中学に入学。めぐみは風疹で入学式を欠席する。入学式と始業式の間の日曜、父親の滋は「桜が散らないうちに」と記念撮影にめぐみを連れ出した。中学の制服姿で。その写真の中で、病後のめぐみはさびしげな顔をしている。

 失踪後の捜索に使われたのは、その写真。明るかっためぐみが、内気そうな少女として人々の目に触れることになったのは、そのためだ。

 中学ではバドミントン部に。長年習っていたバレエは、『花のワルツ』を踊った8月の公演を最後に、やめた。部活に専念するために。

 新潟での二度めの夏。早紀江は中学生になっためぐみのために浴衣を縫う。紺地に赤と緑と黄色の花柄。

 その浴衣を着て、めぐみは夏祭りに。佐渡おけさ、新潟甚句・・・「新潟まつり」の大民謡流しは阿波踊りにも劣らない大規模なものだ。地元企業も会社ぐるみで参加する。滋も日銀新潟支店の一員として菅笠をかぶり、踊りの隊列に。だが、滋の菅笠のヒモがほどけてしまう。あまり器用とはいえない滋は、なかなかヒモを結び直せない。

 その光景を、電話ボックスの横で早紀江らと見つめていためぐみ。

 「どうする?お父さん、まだ結べてないよ。大丈夫?でも、ここでお母さんが出ていって結んであげたら、もっとカッコ悪いし・・・」

 ハラハラし続けていた。母の手縫いの浴衣を着て、父を案ずる娘。大人への階段を昇り始めていた。

 やがてカレンダーは秋を告げる。10月5日、めぐみの13歳の誕生日。11月14日、滋の45歳の誕生日には、携帯用の櫛をプレゼントした。「お父さん、これからはオシャレにも気をつけてね」という言葉を添えて。

 その翌日のことだったのだ。めぐみが、忽然と消えてしまったのは。

 けなげに、そして他の多くの少女たちと同じように、平凡ながら夢いっぱい生きていた、めぐみ。その先にも続くはずだった“未来の暦”を突然ひきちぎったのは拉致―。

 いま、早紀江は川崎市の自宅で、季節ごとにめぐみの写真を選び、額に入れて居間に置いている。いつでも、めぐみと一緒にいるために。

 正月に飾るのは、いつも和服姿のめぐみだ。1977年、あの年を希望の中で迎えた和服姿のめぐみだ。

*第八回 1本のラケット に続く

*めぐみ 13年間のアルバム(7)1977年という年 aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/59024454.html

東京ドーム グラウンド体験ツアー(2)
( 2007.9.28,金 )
 あおいのパパは26日に東京ドームの巨人vs中日戦を観戦してきました。巨人にとってとっても大切な試合でした。初回に4点を取られ、どうなるのと心配しましたが、しっかり勝ってくれました。やったぁ、首位!うれし〜!!その日の様子はまた後ほど書きたいと思っています。(^^)

*東京ドーム グラウンド体験ツアー(1)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/57254964.html

 ところで、あおいのママの妹が9月7日の試合でグラウンド体験ツアーに当たったと紹介しましたが、実はその2日後の試合を父と妹がまた観に行って、またまたこのツアーに当たってしまいました!「お姉ちゃん、大変!また当たったよ!!」って興奮のケイタイメールが届きました。父がうらやましがって譲って欲しかったみたいだけど、妹としては2日前にハイタッチができなかったので、どうしても「今度こそは」という気持ちが強く、結局当たった本人が参加することになりました。お父さんちょっとかわいそう。それにしても何て強運なの〜。

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*東京ドームの外の様子です。夜になるとクマさんたちは色とりどりのライトがついてとてもキレイになります。

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*抽選会はこのように行われます。大勢の中からほんの一握りの幸運な方がツアーやプレゼントが当たります。

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*試合前の巨人の練習風景です。(3塁側からの撮影)まだのんびりしていますね。

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*練習中は報道関係者が多いです。テレビでよく見る解説者や記者さんを見かけたりもします。

 7日と同じような試合展開の中、ベンチ裏に集まった皆さんは「勝ってくれ〜!」と祈るような気持ちで試合終了を待ちました。7回裏にニ岡の2ランで同点になり延長戦へ。試合時間が長くなってしまい、せっかくツアーに当たった方の中には、泣く泣く帰宅された人もいたそうです。電車の時間で仕方ないんですよね。妹も我が家に戻る最終時間を気にしながらヒヤヒヤしながらその時を待ちました。時間を心配した父がケイタイで何度も電話したそうなんですが、妹はギリギリまで粘ったようです。

 そうして「どうにか勝ち越してくれ〜」と願いつつ、10回表に阪神に2点取られ、その裏巨人は清水と小笠原で1点取ってもう一押しだったのですが、結局負けてしまいました。(8対9)妹はまたまたお立ち台の選手とのハイタッチはできませんでした。こんなことあるんだねぇ、かわいそうに・・・。

 7日も9日も3塁側の席(チケット1塁側は取れなかったそうです)。周りは阪神ファンが多いのはしょうがないのだけど、応援があまりにもうるさく感じたらしく、それに接戦をものにできなかったくやしさも相まって、帰宅しても二人は超不機嫌でした。聞いたところによると、父は試合中後ろから阪神ファンにビールをちょっとかけられて(わざとじゃないみたいだけど)、相手を怒ったのだとか。その人がおとなしく謝ったので大事にはならなかったけど、元々ケンカっぱやいので何事も起こらずホントによかったです。海があるせいか伊豆の人は言葉が荒くきついので、その話を聞いて心配してしまいました。

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*ピッチャーマウンドです。ホームベースまで結構距離があります。プロってホントすごいですよね。

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*ホームベースです。この日は合計17人が踏みました。マウンドにもバッターボックスにも立ってみたいです〜!!

 今回の写真もすべて妹が撮影したものです。私のデジカメを持って行ってもらい、自分のカメラと2台で必死に撮ってくれました。試合も時間も気になるし、父からは「早く戻って来い」と催促の電話がなるしで大変だったろうなぁと思います。ありがとネ!慣れないカメラなのでちょっとピンぼけもありますが、何枚か紹介させてもらいました。アンチ巨人ファンの皆さん、ごめんなさいね〜!!

*9月9日 巨人vs阪神 試合結果
http://www.giants.jp/G/result/20070909/

*東京ドーム グラウンド体験ツアー(2) aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/57790491.html

9/26 日本テレビ「びっくり!新世界地図」北朝鮮に潜入 マル秘高級食
( 2007.9.27,木 )
*9/26日本テレビ放送の「びっくり!新世界地図 世界のスゴイ祭り あなたの知らない世界見せますスペシャル」の一部を文字化テキストにしました。(番組は約18分間)よろしかったらご覧になってください。

 私は偶然この番組を見たのですが、このようなグルメ番組を作る側に非常に違和感を感じました。まるですぐにでも行けるような感覚です。食文化をどうのこうの言いたくありませんが、番組で紹介された料理はちっともおいしそうには見えませんでした。しかも北朝鮮で本当にあんなに多くの方々が日常的にレストランで食事をしているのでしょうか。

 番組中、出演者の方々が口々に日本のグルメ番組さながらに「おいしそう、すごーい、(価格が)安い、いいなぁ」等々、感嘆の言葉を出し続けていました。拉致問題に関心のある方なら見ていて信じられないような光景でした。これはあくまでも私の感想です。番組を見た皆さんはどう感じたのでしょうか?


極上!マツタケ料理をアノ国で食べまくり!

【アナウンサー】(スタジオにて)
 「突然ですが皆さん、秋の味覚といえば何を思い浮かべますか?」

【司会・ゲストの面々】(スタジオにて)
 「それはサンマ、栗、梨、マツタケ・・・。」

【アナウンサー】(スタジオにて)
 「そうなんです。日本人にとって秋といえば“マツタケ”ですね。そこで世界のマツタケを調べてみました。皆さんは世界でマツタケが採れる国は何カ国ぐらいあると思いますか?」

【司会・ゲストの面々】(スタジオにて)
 「アジアだけじゃないでしょ?」

【アナウンサー】(スタジオにて)
 「さぁ正解はどうなっているんでしょうか?世界のマツタケ採れる国マップ、それでは新世界地図の発表です。リサーチしたところですね、世界でマツタケが採れる国は192カ国中、何と16カ国です。(フィンランド・スウェーデン・アルバニア・モロッコ・ハンガリー・トルコ・パキスタン・ブータン・タイ・中国・北朝鮮・韓国・カナダ・アメリカ・メキシコ・パラグアイ)」

【司会・ゲストの面々】(スタジオにて)
 「へー、そんなにあるんだ。」

【アナウンサー】(スタジオにて)
 「それでは皆さん、どこの国からの輸入量が一番多いと思いますか?」

【司会・ゲストの面々】(スタジオにて)
 「これは中国じゃないですか?一番見るのは中国産ですよね?スーパーとかで。」

【アナウンサー】(スタジオにて)
 「さぁ世界のマツタケ輸入量マップ、それでは新世界地図の発表です。」

【司会・ゲストの面々】(スタジオにて)
 「あー、中国だね。あっ、北朝鮮。トルコ・・・。」

*続きはブログをご覧になってください。
 ↓ ↓ ↓
*9/26 日本テレビ「びっくり!新世界地図」北朝鮮に潜入 マル秘高級食 aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/57479582.html

東京ドーム グラウンド体験ツアー(1)
( 2007.9.26,水 )
 あおいのパパは今日の夜、東京ドームの巨人vs中日戦を観戦します!会社関係で内野席のチケットを1枚いただきました。今日はセ・リーグ天王山の大事な試合で、子どもの頃から巨人ファンのパパは大喜びです。私も行きた〜いよっ!!

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 写真は9月7日、巨人vs阪神を観戦したあおいのママの妹がグラウンドで撮影したものです。ファンの方なら覚えているかもしれませんが、巨人が7本もホームランを打って勝てなかったあの試合です。(涙)ドーム開場前に外で抽選会があるのですが、たまたま妹が“グラウンド体験ツアー”というのに当たりました。これは勝利した場合、試合後に巨人のお立ち台の選手とハイタッチできる権で、一緒に行った父ははずれてしまったので、当たった妹がとてもうらやましかったそうです。

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 当たった人たちは7回頃に集合して色々と説明を受けたそうです。集合した時、巨人は負けていました。打てば打たれのゲームでちょうど旗色の悪い時だったので、集まった20〜30人の皆さんの雰囲気はまるでお通夜のようにシ〜ンとしていて暗かったとか。ところがしばらくしてイ・スンヨプ、二岡がホームランを打って8対8の同点に追いつくと大変な大騒ぎに!諦めかけた選手とのハイタッチができるかも、とみんな大喜び。

 しか〜し、9回表に守護神・上原が阪神・檜山にホームランを浴び、ゲームセット・・・。こんなめったにないハイタッチ権という幸運を当てた皆さんはもう本当にガッカリしたそうです。

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 でも選手とのハイタッチは残念ながらできませんでしたが、終了後にグラウンド内に入って、マウンドやホームベースに立って写真を撮ることはできました。妹がケイタイで送ってくれたので、その中の数枚を紹介させていただきました。画像が悪くなってしまいましたが、何とか雰囲気は伝わるでしょうか。

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 試合終了後、我が家に帰って来た父と妹には、「巨人が負けてくやしいし幸運も逃してしまったけど、こんなことめったにないんだから」と慰めてあげました。(あんまり慰めにはならなかったみたい)昨年は二人とも試合前のジャイアンツベンチやベンチ裏に入れるツアーにも当たっているんだから、やっぱり幸運だよ、うらやましいっ!!

*9月7日 巨人vs阪神 試合結果
http://www.giants.jp/G/result/20070907/

(2)に続く

*東京ドーム グラウンド体験ツアー(1) aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/57254964.html

めぐみ 13年間のアルバム(6)再び5人そろっての旅を
( 2007.9.25,火 )
*漫画アクション2005年1月21日号〜7月19日号で「めぐみ」(作画/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。(全10回)

【めぐみ 13年間のアルバム より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)

*めぐみ 13年間のアルバム(5)やはり、めぐみなのね
http://aoinomama13.seesaa.net/article/58826001.html

続き

第六回 再び5人そろっての旅を

横田家の旅の記憶はすべてが輝いている。ただ一人“見知らぬ北の国”へ、自分の意思とは無関係に連れ去られためぐみの、“長い旅”を除いて―。

 横田家は一家でよく旅をした。左下の写真は、佐渡へ旅行したときのもの。めぐみは小学6年生だった。1976年夏。新潟に引っ越してきてすぐの夏休みだ。

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*昭和51年夏、佐渡にて(撮影・滋)

 佐渡における船の玄関口・両津港に近い加茂湖の国民宿舎に泊まり、翌日は島の西北部の相川方面へ。金の採掘で有名な佐渡金山を訪ね、尖閣湾では遊覧船を楽しんだ。

 しかし、この旅が、一家5人揃った最後の家族旅行となってしまう。翌年秋、めぐみは忽然と姿を消してしまったのだ。

 自殺や家出の可能性も考えて、警察は、佐渡汽船の乗客名簿まで調べた。家族で旅した思い出の地を選んだかもしれないと。だが、名簿に、それらしき名は見当たらなかった。

 北朝鮮による拉致だと分かるのは失踪から20年もあとのことだ。それまでの間、滋も早紀江も、生殺しのような年月を生きてきた。事件か事故か。あるいは自殺か家出か。手がかりは何一つない。霧の中を手さぐりで歩むような無限の日々。滋も早紀江も、悲しみぬき苦しみぬいた。

 失踪は1977年11月15日。めぐみ13歳。そのときから、横田家は旅をしない一家になった。

 「いつ、めぐみが戻ってくるかもしれない。そのときは、必ず家に居てあげたい」

 滋も早紀江も思いは同じだった。

 知り合いの結婚式、葬式・・・どんな用事でも、夫婦一緒に出かけることはなくなった。どちらかが必ず家に残った。めぐみがいつ帰ってきてもいいように、門灯は明るいものに換え、一晩中、つけっぱなしにした。新潟に住んでいたあいだ、1日も欠かさず。

 新潟に来る前の広島時代は、周辺の観光地へ、一家で本当によく旅をした。萩、津和野、宍道湖、浜田、大山・・・。計画は滋が立てた。

 「一番楽しかった時代」

 滋も早紀江も、そして当時まだ幼なかった双子の弟たちも、そう口を揃える。そんな、ある年。バスに乗って山陰地方の海岸に行き、民宿に泊まって海水浴を楽しんだ帰りのこと。めぐみが、杭に鎖で繋がれている猿を長い棒でからかったことがある。まねして手を出した弟たちは、棒が短すぎたので猿につかまってしまった。頭の上に乗られて帽子を取られたり、ひっかかれたり。

 めぐみは、その光景に大笑いしながらも、あわてて両親を呼んだ。哲也の膝には、いまもそのときの傷が残っている。

 そんな“痛い経験”も含め、旅の記憶はすべてが輝いている。ただ一人“見知らぬ北の国”へ、自分の意思とは無関係に連れ去られためぐみの今も帰路につけずにいるその“長い旅”だけを除いて―。

 そして今、横田家は日本中を“旅”する一家となった。1977年、めぐみが北朝鮮にいると分かったときから。滋のメモ用紙には細かな文字で予定がびっしり記されている。どんな遠くの、どんな小さな集会にも駆けつけ、マイクを握り「拉致問題を忘れないで」と訴える。

 横田家の“旅”は終わらない。滋のメモ用紙に、5人揃った家族旅行の予定が、再び書き込まれる、その日までは。

*第七回 1977年という年 に続く

*めぐみ 13年間のアルバム(6)再び5人そろっての旅を aoi blg
http://aoinomama13.seesaa.net/article/58948021.html

めぐみ 13年間のアルバム(5)やはり、めぐみなのね
( 2007.9.24,月 )
*漫画アクション2005年1月21日号〜7月19日号で「めぐみ」(作画/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。(全10回)

【めぐみ 13年間のアルバム より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)

*めぐみ 13年間のアルバム(4)二つに結った髪
http://aoinomama13.seesaa.net/article/58771114.html

続き

第五回 やはり、めぐみなのね

早紀江は思わず写真を手でさすり「めぐみちゃん、こんなところにいたの!?」と呼びかけながら涙を流した。

 2004年11月、北朝鮮は3枚の「横田めぐみ」の写真を、日本側に提出した。日朝実務者協議の席だ。一緒に出してきた“遺骨”はニセモノだった。写真は3枚のうち1枚だけが室内の撮影で、拉致後1年以内に撮ったと思われるもの。おびえたような視線をカメラに向けている。

 その写真を見た瞬間、母の早紀江は思わず写真を手でさすり、「めぐみちゃん、こんなところにいたの!?」と呼びかけながら涙を流した。13歳で急に行方不明となった当時、必死に探し求め続けためぐみの姿が、そのまま、そこにあったからだ。

 双子の弟たちも、官邸近くの一室で声をあげて男泣きに泣いた。

 残り2枚は成人後のもの。木立を背景に、道端に立つ全体像。顔は小さくて表情がよく分からない。そもそも大人になってからのめぐみがいったいどんな顔になったのか、家族の誰も知らないままなのだ。自宅に帰った横田滋・早紀江夫妻は、大きなルーペを取り出して、写真の顔を何度も何度も、見つめ直した。

 「めぐみちゃんに、違いない」

 2枚のうちの片方、白いコート姿の写真については、早紀江はいち早く確信していた。「独身時代」とされる写真だ。右足を少し前に出し、爪先を外側に向けた立ち方。それは小学6年の夏に自宅の玄関前で撮った写真(前頁)と、そっくりだった。

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*昭和51年、新潟の自宅玄関前にて(撮影・滋)

 3歳から中学1年の夏まで、ずっとバレエを続けていためぐみ。片足を前に出した、そのスッとした立ち方こそ、写真を撮るときのめぐみの特徴なのだ。体の前で両手を合わせるしぐさも同じだった。

 早紀江は写真に語りかけた。

 「やっぱり、めぐみちゃんなのね」

 1976年夏、横田家は滋の転勤にともなって広島から新潟に引っ越してきた。めぐみにとっては小学6年途中での転校。新しい自宅は、広い庭の付いた1戸建てだった。その玄関前で記念に撮った1枚。

 めぐみが着ているのは、新潟行きのために買ったオシャレ着だ。「新しい町に着て行く服を、探して」という女の子らしい願いのために、一家で買い物に出かけて選んだ服。

 この頃まで、めぐみの服は父の滋がよく買っていた。それは滋の楽しみだった。女の子らしい可愛いカッコウをさせたい。今の若い子が着ている、流行の服を着せたい。滋は、めぐみと一緒に出かけ、娘のために服を選んだ。めぐみは、むしろオーソドックスな服を好んだが、父親に買ってもらった服を素直に着てもいた。まだ、父親にも従順な年頃。

 めぐみが北朝鮮に拉致されたのはそんな早い時期のことなのだ。

 カメラが趣味の滋は、めぐみを撮るときは、きれいに写るようにと、みずからスカートの後ろを洗濯バサミでつまみ、服のラインを整えるほど熱心なカメラマンだった。

 それほど好きなカメラ、それほど大好きなめぐみを撮るという行為。その楽しみが滋の手の届かないものとなってから、既に27年余が経つ。

 北朝鮮が出してきた3枚の写真。そのシャッターを押したのは、言うまでもなく、滋ではない。

 そんな、もう一つの“陰のアルバム”を作った者たちを、我々はけっして許してはならない。

*第六回 再び5人そろっての旅を に続く

*めぐみ 13年間のアルバム(5)やはり、めぐみなのね aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/58826001.html

めぐみ 13年間のアルバム(4)二つに結った髪
2007.9.23,日
*漫画アクション2005年1月21日号〜7月19日号で「めぐみ」(作画/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。(全10回)

【めぐみ 13年間のアルバム より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)

*めぐみ 13年間のアルバム(3)「タッくん」と「テッちゃん」
http://aoinomama13.seesaa.net/article/58620308.html

続き

第四回 二つに結った髪

長い髪を二つに結い、リボンをつけたお下げを揺らしながら遊ぶめぐみ。いまでもバスや電車で同じ髪型の女性を見かけるとたまらなくなる。

 めぐみが失踪してから、母の早紀江は、油絵を描くようになった。娘の肖像画だ。

 絵でもいいから、そばにいて欲しい。そう願いながら、小さな写真をもとに、めぐみの面影をキャンパスの上に追った。壊れてしまいそうな自分の心を、辛うじて支えながら。

 最初に描いたのは、長い髪を二つに結った幼い頃の姿だ。リボンをつけたお下げを揺らしながら遊ぶ、めぐみ。その姿が、早紀江にはいまでも一番懐かしい。

めぐみさん04.jpg

*昭和43年ごろ、東京・大井の行舎近くにて早紀江と(撮影・滋)

 写真のように、幼稚園に入る頃から二つに結い始め、大きくなってからもいつも早紀江が髪を結ってあげていた。頭の真ん中に1本の筋をつけるようにして、後ろの髪を左右に分け、二つに結う。

 早紀江のするままに任せ、めぐみはおとなしく座っていた。

 そんな「母と娘」の時間・・・。

 いまでも、バスや電車の中で、前の座席に、同じような髪型の女性が座ると、早紀江はたまらない気持ちになる。あのときは、あんなリボンをつけてあげた、こんな飾りをしてあげた。めぐみの髪は、もう少し茶色っぽかったかしら。さまざまな思いで胸が一杯になる。目の前の、髪の分け目を見つめながら。

 幼稚園の制帽をかぶると、二つに結った髪が邪魔して、めぐみの帽子はどうしても傾いた。そのかっこうが似ているからと、一度、「ピンキー」と呼ばれたことがある。

 ピンキーとキラーズ。斜めにかぶった紺のシルクハットで、カッコよくポーズをキメていた、あのピンキー。デビュー曲の『恋の季節』が大ヒットしたのは、1968年のことだ。めぐみは4歳になっていた。

 小学生になってから、めぐみは、書道を習っていた早紀江のために、誕生日に小筆をプレゼントしてくれたことがある。家の近くの文房具店で買った筆を抱えて、坂の上の自宅まで、汗をかきながら帰ってきた。

 坂道を一生懸命登ってくる、めぐみ。左右の髪を揺らしながら。その姿を思い浮かべるたびに、早紀江の心もまた揺れてしまう。

 早紀江の誕生日は2月4日。

 思えば、めぐみの失踪が「13歳少女失踪事件、北朝鮮による拉致だった」と、初めて実名入り、写真付きで一斉に報道されたのは、1997年の2月3日のことだった。その日、めぐみのことは国会でも取り上げられ、拉致の事実が初めて日本中にはっきりした形で公になった。原因不明の失踪から20年。事態が大きく一歩、動きだした日だ。

 その大きな渦の始まりの中で、翌日、早紀江は61歳の誕生日を迎えていた。翌月、家族会が結成され、4月には早紀江も、生まれて初めて街頭(新潟市)でマイクを握った。

 「署名をお願いします。北朝鮮に拉致された娘を取り戻すために・・・」

 あれから既に8年。時間はあっという間に流れていく。拉致問題への世間の関心は当時とは比べものにならないほど大きくなったとはいえ、齢を重ねる親たちにとって、残された時間はけっして多くはない。

 どんなところへでも行って訴えよう。自分の体が動くかぎり。悔いの残らないように。早紀江は、その思いで国の内外を駆けめぐっている。

 必ず会える。そう信じている。自分のもとに駆け寄ってくる、めぐみに。あの日のように、髪を揺らしながら、駆け寄ってくる、めぐみに。

*第五回 やはり、めぐみなのね に続く

*めぐみ 13年間のアルバム(4)二つに結った髪 aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/58771114.html

めぐみ 13年間のアルバム(3)「タッくん」と「テッちゃん」
2007.9.22,土
*漫画アクション2005年1月21日号〜7月19日号で「めぐみ」(作画/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。(全10回)

【めぐみ 13年間のアルバム より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)

*めぐみ 13年間のアルバム(2)「御所ちゃん、来たね」
http://aoinomama13.seesaa.net/article/58557694.html

続き

第三回 「タッくん」と「テッちゃん」

姉の事は触れられたくない傷、「2人だけの兄弟」と押し通した。だが、いま拓也は、そして哲也も、多くの人の前に立ち、訴える。

 めぐみは、小学校時代の大部分を広島で過ごした。写真は、小学3年のめぐみと、幼稚園に通い始めた双子の弟たち、拓也と哲也。

めぐみさん03.jpg

*昭和48年頃、広島・日銀行舎近くにて2人の弟と(撮影・滋)

 拓也が得意気にまたがっているのは、姉めぐみの自転車だ。双子といっても、子供の頃は、兄の拓也のほうが弟の哲也より体も大きく、お菓子やおもちゃの奪い合いでも、いつも拓也が優勢。ベソをかき「お姉ちゃ〜ん」と助けを求める“テッちゃん”をかばい“タッくん”を叱るのは、いつもめぐみの役割だった。

 弟の頭に軽く手を添えながら、両足を揃えて立つ、めぐみ。3歳からバレエを習い始めためぐみは、このころ、写真の中で、よくこんなふうに爪先立ちのポーズを取っている。「ヒザをまっすぐ伸ばして立てるように、ふだんから練習を」と、バレエ教室で叩き込まれていたからだ。「バレエを習いたい」と言いだしたころ、めぐみはまた、弟妹もさかんに欲しがっていた。めぐみと双子の弟たちとは年が4歳離れている。「ママ〜、なんでミイちゃんのところに、赤ちゃん、いないの?」

 幼い頃、自分のことをミイちゃんと呼んでいためぐみは、友だちの家と同じように、赤ん坊が欲しくて仕方なかったのだ。

 その頃の横田家は(転勤で広島に移って来る前の)東京住まい。家の近くには鹿島神社があった。幼稚園からめぐみを乗せて帰ってくる通園バスは、ちょうど、その神社のあたりに停まる。バスから降りためぐみは、いつも勢いよく神社の奥に駆け込んで、小さな手を合わせていた。「ミイちゃんのところにも、赤ちゃん、ください」

 と。そんなめぐみに、いっぺんに2人も弟ができたのだから、よほど嬉しかったのだろう。

 「ミイちゃんのとこ、赤ちゃんが、2人、来たんだよ〜ッ」

 大きな声で、社宅の庭じゅう、お知らせしながら歩き回ったという。まだ産院に入院中だった母・早紀江が、退院後に、近所の人から教えてもらった話だ。

 小学生になってからも、めぐみは弟たちの面倒をよく見た。一緒に歌をうたったり、にぎやかにふざけ合ったり。姉弟のなかでも、そして家族じゅうでも、いつも笑いの中心にいて、太陽のような存在だった姉。

 その明るかっためぐみが、拉致されるのは、この写真から、たった4年後のことだ。わずか13歳。

 拓也と哲也はまだ小学校の低学年だった。「わ〜い、わ〜い、横田めぐみ、いないじゃないか」・・・ 無邪気ゆえに心ない近所の子供たちは、2人に向かって、こう囃したてた。

 やがて“事件の町”新潟を離れたあと、2人は転校先でも職場でも、長い間「うちは2人だけの兄弟」で押し通した。姉の“原因不明の失踪”は、2人の弟にとって、他人にはけっして触れられたくない傷として、胸の奥深くしまわれ続けたのだ。

 だが、いま拓也は、そして哲也も多くの人の前に立ち、訴える。

 「姉は、13歳で拉致されて、もう40歳です。人生を突然ねじ曲げられ、人生の3分の2以上を、地獄のような国で生きることを強いられています。そのことが悔しい。

 失われた時間を取り戻すことは、できません。でも、これからの時間は作ってあげることができる。だから一刻も早く、助け出したい。弟として、そして日本人の責任として」

*第四回 二つに結った髪 に続く

*めぐみ 13年間のアルバム(3)「タッくん」と「テッちゃん」 aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/58620308.html

北朝鮮工作員に引き渡されていた「女子高生二人」の安否 ('06 2/10 FRIDAYより)
( 2007.9.21,金 )
*少し時間が経っていますが、昨年2月のFRIDAYの記事(P94〜95)をテキストにしました。

【'06 2/10 FRIDAYより】

拉致問題に新展開! 「藤田進さん連行犯」が供述していた!
 北朝鮮工作員に引き渡されていた「女子高生二人」の安否

 千葉市内のスーパーで働きながら定時制の高校に通っていた関谷俊子さん(当時17)は、その日、幼なじみの女友達、親戚の男性と3人で食事に出かけていた。「二人を家まで送ってくる」

 親戚の男性は飲食店の店員にそういうと、店を出て、赤のマークUに女子高生二人を乗せて走り去った。それが、彼女たちが目撃された最後の姿だった―。

 '74年7月のことである。迷宮入りかと思われたこの失踪事件が、約30年ぶりに新たな展開を見せた。警察庁の小林武仁警備局長が1月23日、関谷さんと幼なじみの同級生の二人が北朝鮮に拉致された可能性があることを認め、捜査中であることを明らかにしたのだ。自民党拉致問題対策本部で小林局長が報告したもので、東京学芸大学の学生だった埼玉県川口市の藤田進さん(同19・'76年に失踪)の拉致を告白した自称・日本国籍の男、Aが当局の事情聴取に対し、「関谷さんらとみられる女子高生二人を新潟までクルマで運び、現地で待っていた人物に引き渡した」と供述したというのだ。

 実は当局以外でAと接触した人物がいる。「特定失踪者問題調査会」(以下、調査会)の真鍋貞樹専務理事だ。

 「'04年12月と翌年の1月の2回、都内でAと会った。向こうから、『拉致被害者の救出を手伝いたい』と連絡してきたんです」

 Aはまず、藤田さんの拉致について、語りだしたという。

 「西新井病院(東京・足立区)の運転手をやっていたころ(病院側は否定)、千葉県の鴨川にある病院の関連施設に監禁されていた藤田さんを、クルマで新潟県の糸魚川まで運ばされたというんです。そこで、『待っていた数人の人物に藤田さんを引き渡した』と。さらに、『若い女性二人の拉致も手伝わされた』と証言していたんです」(真鍋専務理事)

 Aは、関谷さんたちの拉致に関して、こう説明したという。

 「関谷さんらしき女性たちと会ったのも、西新井病院の関連施設だった。そこに監禁されていた二人を新潟港までクルマで連れて行って(待っていた工作員に)引き渡した。一人は背が高く、一人は低かった。二人とも頭から袋をかぶせられていた。だから、顔は見ていない」

 関谷さんは身長160cm後半、友人は150cm台で、背格好も二人に合う。しかし、その後の安否はわからない、という。

 西新井病院は、「総連(在日本朝鮮人総聯合会)トップにも意見できる北系在日の超大物」(元総連活動家でライターの李策 リ・チェク氏)という金万有(キム・マンユ)氏(故人)が経営する病院として有名だった。しかし昨年10月、警視庁公安部が行った朝鮮総連関連施設一斉捜査の際には、この“聖域”にもメスが入った。当時の「この病院が拉致に関与している可能性を当局が認めたからでしょう」という調査会の見解が今回、裏付けされた形となる。

 Aとはどういう人物なのか。

 「50代後半、白髪まじり。背は170cmもなかったが、ガッチリしていた。革ジャンと色物のシャツを着たヤクザ風の男でしたね。連絡は向こうからの一方通行で、連絡先は教えてもらえなかった。ただ、話すと目つきが柔らかくなり、気さくな印象を受けました。拉致に協力したのは、日本に住む北朝鮮の協力者―いわゆる“土台人”に脅されたからだとか。だが、Aはこういいました。『もういいんだ。それより、自分と同じ日本人の拉致に関わったことで、良心の呵責に耐えられなかった。だから、話す気になった』と」(真鍋専務理事)

 ただ、警察庁の小林警備局長は、関谷さんたちの失踪事件について再捜査していることを認めたが、「残念ながら拉致と特定できるだけの資料がない。もう一回、洗い直している」というにとどまった。

 真鍋専務理事もこう語る。

 「いまのところ、調査会は当局の考え方と同じです。Aの供述だけで判断せず、捜査の進展を待ちたいと考えています。ただ、関谷さんの失踪事件の1年前には、同じ高校の3年先輩で調査会が『拉致の疑いが極めて濃厚』と見ている古川了子さん(同18)が失踪している。千葉駅周辺で不審な人物がウロウロしていたのが古川さんの友人に目撃されており、実際、何件か拉致未遂事件も起きている。当時の千葉で何かがあったことは間違いないでしょう」

 存命ならば関谷さんらは現在48歳になる。夢いっぱいの青春時代を無理やり奪われた女子高生の制服姿が悲しい。

終わり

*記事中にありました関谷さんと共に行方不明になったお二人の情報は、現在特定失踪者調査会が公開しています。
↓ ↓ ↓
*古川了子さん 昭和48(1973)年7月7日失踪
http://chosa-kai.jp/cgi-bin/address/list3.cgi?word3=60&mode=search3
*関谷俊子さん 昭和49(1974)年7月11日失踪
http://chosa-kai.jp/cgi-bin/address/list3.cgi?word3=241&mode=search3
*遠山常子さん 昭和49(1974)年7月11日失踪
http://chosa-kai.jp/cgi-bin/address/list3.cgi?word3=257&mode=search3
*峰島英雄さん 昭和49(1974)年7月11日失踪
http://chosa-kai.jp/cgi-bin/address/list3.cgi?word3=258&mode=search3
*藤田進さん 昭和51(1976)年2月7日失踪
http://chosa-kai.jp/cgi-bin/address/list3.cgi?word3=79&mode=search3

*北朝鮮工作員に引き渡されていた「女子高生二人」の安否 ('06 2/10 FRIDAYより) aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/56734160.html

9/18 NHK「クローズアップ現代」“いつまで待つのか” 〜拉致家族 5年目の夏〜
( 2007.9.20,木 )

*写真は平成16年(2004年)5月の有楽町街頭活動の際、撮影したものです。(インタビューを受ける飯塚耕一郎さん、横田拓也さん、横田哲也さん)耕一郎さんはこの年の2月から家族会の活動に参加しています。

*9/18放送の「クローズアップ現代」を文字化しました。番組は30分間だったのですが、録画を失敗してしまい残り2〜3分間分がありません。どうぞご了承ください。(本当にすみません!)

“いつまで待つのか” 〜拉致家族 5年目の夏〜

【司会者・国谷裕子さん】(スタジオにて)
 「こんばんは。クローズアップ現代です。北朝鮮が日本人の拉致を認めた日朝首脳会談から5年、今拉致被害者の家族の方々の間に危機感が広がっています。」

【ナレーター】
 おととい(16日)開かれた拉致被害者家族の緊急集会。拉致問題が一向に進展しない状況に苛立ちの声が相次ぎました。

【田口八重子さんの兄・飯塚繁雄さん】(緊急集会にて)
 「北は返す気があるのか、日本は取り戻そうという気があるのかと・・・」

【横田めぐみさんの母・横田早紀江さん】
 「必ず解決するまで私たちは訴え続けてまいります。」

【ナレーター】
 この夏、被害者の家族は北朝鮮をめぐる外交交渉に注目しました。核問題でアメリカと北朝鮮が接近、そして今月初めに行われた日本と北朝鮮の直接協議。「拉致問題について具体的な進展はありませんでした。」(ニュースより)家族の期待はまた裏切られました。さらに先週、拉致問題の解決を最重点課題に掲げていた安倍総理大臣が辞意を表明。

【田口八重子さんの兄・飯塚繁雄さん】(家族会会見にて)
 「あまりショックが大きくてですね、コメントも出ない・・・。この拉致問題の解決、どうなっていくんだろうと・・・。」

【ナレーター】
 国の内外の政治の動きに翻弄される被害者の家族たち。5年目の夏、その思いを見つめました。

*少し長めですので、続きはブログでご覧になってください。
 ↓ ↓ ↓
*9/18 NHK「クローズアップ現代」“いつまで待つのか” 〜拉致家族 5年目の夏〜 aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/56334500.html

'06 12/17 拉致問題に関する講演会 河内隆さん(拉致問題対策本部事務局総合調整室長)
( 2007.9.19,水 )
 かなり時間が経っておりますが河内さんの講演要旨をレポートにしました。河内さんは「拉致問題に対する政府の対応について」という資料を基にお話されました。(拉致問題について・北朝鮮情勢・拉致問題への対応・今後の展望など)約40分間の長いお話の上、非常に早口でしたので、聞き取りに間違いやカン違いのある可能性がかなりあると思います。どうかご了承ください。

 長文ですので、ブログにて3回に分けて掲載しております。よろしかったらご覧になってください。

*'06 12/17 拉致問題に関する講演会 河内隆さん
 (拉致問題対策本部事務局総合調整室長)(1)

http://aoinomama13.seesaa.net/article/56152685.html
*'06 12/17 拉致問題に関する講演会 河内隆さん
 (拉致問題対策本部事務局総合調整室長)(2)

http://aoinomama13.seesaa.net/article/56496074.html
*'06 12/17 拉致問題に関する講演会 河内隆さん
 (拉致問題対策本部事務局総合調整室長)(3)

http://aoinomama13.seesaa.net/article/56844019.html

小さなブルーリボン
( 2007.9.18,火 )

 写真のブルーリボンはあおいのママが最近作っているブルーリボンです。細めのリボンをくるくるって回しながらリボンの形に整え、安全ピンとお花のスパンコールとビーズを縫いつけて出来上がり。いつも作っているクロスしたものよりだいぶ小さめです。

 ひとつひとつ違った顔になる小さなブルーリボン。またどこかに飛んで行って、一日も早く拉致問題が解決するよう、そして少しでも一生懸命な皆さんの支えになってくれればいいなと願っています。

*小さなブルーリボン aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/

女性拉致容疑事案について 警察庁 平成18年11月20日
( 2007.9.17,月 )
 昨年12月17日に千葉市で行われた講演会で、内閣官房拉致問題対策本部事務局総合調整室長の河内隆さんが「北朝鮮当局による日本人拉致問題の解決に向けて」(拉致問題と日本政府の対応を中心として)という資料をもとにお話をされました。その資料の一部をテキストにしてご紹介します。

*'06 12/17 拉致問題に関する講演会に参加しました
http://aoinomama13.seesaa.net/article/29907850.html

女性拉致容疑事案(鳥取)について

1 被害者
 氏名:松本京子(まつもときょうこ)
 年齢:29歳(当時)
 住所:鳥取県米子市(当時)
 職業:会社員(当時)

2 事案の概要
 昭和52年10月21日夜、鳥取県米子市内の自宅を出て、近くの編み物教室に向かう被害者が、母親にその後ろ姿を確認されたのを最後に消息を絶って以後、北朝鮮の国家的意思が推認される状況の下、本人の意思に反して、北朝鮮に移送されたもの。

3 拉致であるとの判断に至った理由
 (1)警察において、拉致容疑事案としているものは、そのいずれも、北朝鮮の国家的意思が推認される形で、本人の意思に反して、北朝鮮に連れて行かれたものと考えている。

 (2)他方、本事案については、昭和52年10月21日夜、鳥取県米子市内に居住していた被害者が、自宅近くの編み物教室に向かう後ろ姿を母親に確認されたのを最後に消息を絶って以後、失踪当時の状況や被害者の意思及びその後の所在に係る正確な情報が乏しかったところ、近年における捜査を取り巻く諸情勢の変化を背景とした徹底した再捜査により、このたび、被害者の失踪状況及び失踪後の所在等の解明に資する供述証拠等を、新たに入手するに至ったものである。

 (3)こうして得られた新証拠を含め、一連の捜査結果を総合的に検討した結果、警察では、本事案を北朝鮮による日本人拉致容疑事案と判断するに至ったものである。

4 捜査の経緯
 (1)本事案については、昭和52年10月21日夜、鳥取県米子市内に居住していた被害者が、自宅から近くの編み物教室に向かう後ろ姿を母親に確認されたのを最後に消息を絶ち、そのころ、被害者の自宅付近で発生した傷害事件の現場から、被害者とみられる女性及び同人と一緒に居たとされる男性数名が海岸方向に逃走し、その後、同現場で被害者の履物(サンダル)が発見されたものである。

 (2)警察では、事案発生翌日の昭和52年10月22日、被害者の御家族からの申し出により、当該傷害事件の現場に居た女性が被害者である可能性が高いと判断し、同月24日には、御家族から被害者に係る家出人捜索願の提出を受け、同人の発見・保護に向け所要の手配を行うとともに、事件・事故等あらゆる事態を想定し、所要の捜査等を行ってきたところであるが、当時の段階では、北朝鮮による拉致容疑事案と判断するまでには至らなかった。

 (3)こうした中、平成14年9月、金正日国防委員長が、日朝首脳会談の席上で、日本人拉致を認め、謝罪して以降、拉致容疑事案に対し国民が高い関心を示すようになったほか、報道においても、拉致被害者やその可能性が指摘される失踪者について、大きく報じられるなど、捜査を取り巻く環境に大きな変化が生じた。

 (4)本事案についても、白紙の立場から、捜査事項の徹底した洗い直しを行い、最近、被害者の失踪状況及び失踪後の所在等の解明に資する供述証拠等、本事案を拉致容疑事案と判断するに足る具体的な証拠等を、新たに入手するに至ったものである。

*その他の資料のテキストです。
 ↓ ↓ ↓
*拉致問題に関する過去の主な動き
 (2002年9月〜2006年6月)

http://aoinomama13.seesaa.net/article/41365747.html
*拉致問題に関する最近の動き(2006年7月〜)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/41504110.html
*北朝鮮関連資料1(概要・成立と歴史・最近の動向)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/50258941.html
*北朝鮮関連資料2(日朝間におけるモノ・カネの移動)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/50345897.html
*関係省庁による拉致問題関連施策
 (平成18年11月 内閣官房拉致問題対策本部事務局)

http://aoinomama13.seesaa.net/article/53039707.html

*女性拉致容疑事案について 警察庁 平成18年11月20日 aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/56639114.html

青ぞらと夕やけのとんぼ
( 2007.9.14,金 )

 写真は今日の夕方、我が家から撮影しました。とんぼが電線でたたずんでいる姿が何とものどかに感じ、思わずカメラのシャッターを押しました。子どもの頃からとんぼってかわいくて大好きです。

 今週は個人的に色々とありました。うれしいこと悲しいことが続いた1週間でした。そんな時、ふと外を見たら夕やけの中にとんぼがいたので、しばらくジッと見入ってしまいました。ちょっと感傷的になっているのかな・・・。

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とんぼのめがね

とんぼのめがねは
水いろめがね
青いおそらを
とんだから とんだから

とんぼのめがねは
ぴかぴかめがね
おてんとさまを
みてたから みてたから

とんぼのめがねは
赤いろめがね
夕焼雲を
とんだから とんだから

*青ぞらと夕やけのとんぼ aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/55347906.html

喜びの部屋で
2007.9.9,日

*今年はこの向日葵を飾りました。

 平成15年9月9日午前4時頃、私は分娩室から車椅子でその部屋に運ばれた。疲れ切っていたのでどんな部屋かわからなかった。ただその時は真っ暗だったように思う。

 睡眠薬を飲みベッドに入ったがなかなか眠りにつけない。夫が横で心配している。早く寝なければと気を落ち着かせようとした。

 しばらくして夢を見た。小さな子を捜す夢で、歩けない私が泣きながら必死で呼んでいる。子の姿がはっきりしない真っ白な夢。悲しくて寂しくて苦しい夢だった。

 目を覚ますと青い空がまぶしく感じた。部屋は一面窓からの陽の光でいっぱいだった。ここはファミリータイプの角部屋でプライバシーも守られる。窓が大きい広くて明るい喜びの部屋だったのだ。

 本来ならここは誕生した新しい命をみんなで祝うべき部屋。そこで私はまずわが子の旅路の衣装を作らなければいけないのだ。小さな毛糸のカーディガン、まだまだ暑いこの季節には不似合いなベビー服。でもこれがわが子にできる最初で最後の母親らしいことだった。

 別れの日、せめて一口でもいいから母乳を飲ませたいと思った。私は前日に母乳を止める薬をもらっていた。お乳が出てしまってから飲んでも効かない薬だという。赤ちゃんを亡くした母親にとって、その後にお乳が出るのはつらく悲しいこと。でもこの子が生まれた時、口を開けてお乳を欲しがっているように見えた。だから私は薬を飲まない選択をした。

 喜びの部屋で必死にお乳をあげようとする母親の私。助産婦さんも一生懸命にマッサージしてくれたが、とうとう母乳は出なかった。泣いて泣いて泣き続けた。息絶えたわが子を抱きしめながら、旅立つこの子に何もしてやれないと泣き続けた。

 あれから4年、娘を想い泣かぬ日はない。自分を責め続けながら、これからも毎日を生きていくのだろう。

*喜びの部屋で aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/55040086.html

めぐみ 13年間のアルバム(2)「御所ちゃん、来たね」
2007.9.8,土
*漫画アクション2005年1月21日号〜7月19日号で「めぐみ」(作画/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。(全10回)

【めぐみ 13年間のアルバム より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)

*めぐみ 13年間のアルバム(1)忘れられない温もり
http://aoinomama13.seesaa.net/article/58354610.html

続き

第二回 「御所ちゃん、来たね」

「意思表示がはっきりしてる子やね」と医師を笑わせた幼き日のめぐみ。やだ、やだ― めぐみが、どこかで叫んでいる。

 よく太って、元気そうな赤ちゃんね― めぐみを目にした人々は、ベビーカーを押す早紀江に、たいていこんなふうに声をかけてくれた。

 めぐみが、誕生から1年半近くを過ごした名古屋。自宅のそばには、美しい鶴舞(つるま)公園があった。その園内は、早紀江にとって、めぐみとの幸せな散歩コース。休日ともなれば、かたわらには、カメラを手にした夫・横田滋が必ず寄り添っていた。

めぐみさん02.jpg

*昭和40年、名古屋の鶴舞公園にて早紀江と(撮影・滋)

 生まれたときは3260グラム。普通の体重だったけど、よく飲みよく食べて、元気良くどんどん太っていっためぐみ。この写真の頃(約10カ月)が一番丸々としていた。

 当時通っていた病院では、看護婦さんたちが「御所(ごしょ)ちゃん」と呼んでくれていた。色白で、まん丸い顔。眠っていると目がヒュッと細かったから、「まるで御所人形みたい」と言われていたのだ。看護婦さんは、いつも「あ、御所ちゃん、来たね」と迎えてくれた。

 生後まもなく「斜頸」が見つかった。首の筋肉が固く縮んでしまう疾患。筋肉を揉みほぐすマッサージを受けるため、週に3日、半年近くも病院に通った。こんなふうに公園の中の道を通って。病院は鶴舞公園を抜けてすぐのところにあった。

 早紀江の脳裏には、ともに過ごした13年間、おりおりに見せためぐみの表情がいくつも浮かんでくる。「御所ちゃん」だった時代。初めて立ち上がれたときに見せた嬉しそうな顔。二つに結ってあげた髪を頭の両端で揺らしながら、「ママ〜ッ」と走り寄ってきた幼い日のめぐみ。よく笑い転げていた、あんなにも明るかった小学生のめぐみ・・・。

 斜頸を治療するためのマッサージをいやがって、真っ赤になって怒るように泣いていためぐみの姿も、そんな忘れられない思い出の一頁だ。他の赤ん坊たちは、しばらくすると諦めて泣きやんだけど、めぐみだけはいつも最後まで「やだ! やだ!」と大きな声を出し続けていた。「やんちゃだな。なかなか意思表示がはっきりしている子やね」と、お医者さんは笑っていた。

 やだ、やだ―。

 めぐみが、どこかで叫んでいる。

 北朝鮮で、めぐみはいったいどんな生活を強いられ、どんな思いでいるのだろう。今日はどうしてるの?棒で叩かれてはいないかしら?

 いま、一日のはじまりを、毎朝必ずこんな思いから始めなければならないことが早紀江には何より辛い。

 そして、今日も祈る。めぐみちゃん、あなたの持ち前の元気さと、明るさと強さで頑張って。しっかり生き抜いて。なんとか元気でいて。

 たくさんの人々に可愛がられ、助けられて育った、めぐみ。めぐみ自身も、周囲の人にあたたかく接する子だった。そんなあなたなら、どんなところでも、きっと強く生き抜いていてくれるに違いない。

 「お母さん、私は、ここにいるわよ。死んだなんて嘘。早く助けに来て・・・ 私には、めぐみがそう叫んでいるように思えてなりません。日本にいる私と同じ月、同じ星を、北朝鮮で眺めながら、今日も叫んでいる。きっと助けに来てくれると信じて、待っているに違いないんです。国は、命懸けで救出に取り組んでほしい」

 めぐみが北朝鮮によって「死亡」とされてから以降、とくに最近の各地での集会や講演で、早紀江は、こう訴え続けている。

*第三回 「タッくん」と「テッちゃん」 に続く

*めぐみ 13年間のアルバム(2)「御所ちゃん、来たね」 aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/58557694.html

めぐみ 13年間のアルバム(1)忘れられない温もり
( 2007.9.7,金 )

*写真は2005年7月に小山さんからいただいた本です。

*漫画アクション2005年1月21日号〜7月19日号で「めぐみ」(作画/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。(全10回)

【めぐみ 13年間のアルバム より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)

第一回 忘れられない温もり

愛娘、めぐみと過ごす時間を他の何よりも大切にしていた父・滋。赤子のめぐみを抱き寄せた時の頬の温もりを今でもまざまざと思い出すことができる。

 めぐみが生まれた日のことを、父親である横田滋は今も鮮明に覚えている。1964年、東京オリンピックが開幕する直前の10月5日のことだ。

 その日の朝、「お腹が痛い」という妻・早紀江を、タクシーで自宅から名古屋・聖霊病院まで送った滋は、「すぐにも生まれそうだ」という医師の診断を聞いて、あわてて勤務先(日銀)へと向かった。職場に置いてあった愛用のカメラを取りに行くためだ。休暇届を出し、すぐに病院に戻った滋は、夕方になってようやく産声を上げた赤ん坊を、そのカメラで撮りつづけた。看護婦さんに体を洗われたり、身長や体重を測られているわが子のすぐ横で、シャッターを押しつづけた。

 新婚の滋と早紀江にとって、初めての赤ん坊。「女の子が欲しい」と望んでいた滋には、何より嬉しい授かり物だった。

 その日から5カ月目。初めての桃の節句を迎えた横田家では、ささやかな祝いの記念に1枚の写真を撮っている。滋の当時の転勤先であり、結婚生活をスタートさせ、娘めぐみの誕生の地ともなった名古屋。その自宅(日銀の社宅=行舎)の一室での、輝くような幸せのひとときだ。

めぐみさん01.jpg

*昭和40年3月、名古屋の行舎にて滋と(撮影・早紀江)

 殺風景な部屋を雛祭りらしくしようと、壁には、早紀江が子供時代に父親から贈られたという掛け軸を飾った。結婚したときに友人や知人がプレゼントしてくれた人形も持ち出してきて、並べてみた。

 カメラが趣味で、いつもはシャッターを押す側の滋が、「僕とめぐみが一緒のところを・・・」と、早紀江にカメラを渡して写してもらった1枚。頬ずりするようにして抱いためぐみのズシリとした重さとぬくもりは、いまも腕の中に記憶として残っている。

 この「父と娘の写真」からほぼ1年後、1966年2月に、横田家の親子3人は転勤で東京(大手町)に移住する。だから、2度目の桃の節句は、そこで迎えた。間もなく、双子の弟たち(拓也と哲也)も生まれて5人家族になった。

 その後、広島への転勤時代を経て、一家は新潟へ。新たに住むことになったのは、家を出て数分も歩くと、突如として広大な日本海が現れる新潟市水道町という町だった。

 引っ越してきてからまだ1年ちょっとのその町で、中学1年生だっためぐみは、あの日、忽然と姿を消してしまった。1977年11月15日。下校途中の突然の失踪だった。理由も全く分からないままに(北朝鮮による拉致だと分かったのは失踪から約20年もあとのことだ)。

 「めぐみは体重があって重い赤ん坊だから、母親のお前より僕が・・・」と、喜んで、だっこ係を引き受けていた父・滋。双子の弟が生まれてからも、幼い2人の世話で早紀江が忙しいからと、夜中のトイレの世話から映画鑑賞や遊園地の乗り物の付き添いまで、進んでめぐみの面倒を見つづけていた父・滋。

 その滋の腕の中から、音もなく、するりと抜け落ちるように、めぐみの姿は突然かき消えてしまった。

 初めて桃の節句を祝った日から40年。いま滋は、静かに、だが、固く信じている。いつかまた、その日が必ずやって来ると。この写真のように、再び自分の腕の中に思い切り娘を抱き寄せることのできる、その日が―。

*第二回 「御所ちゃん、来たね」 に続く

*めぐみ 13年間のアルバム(1)忘れられない温もり aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/58354610.html

3/31 第16回藤沢市民集会 横田拓也さん(拉致被害者横田めぐみさんの弟)
( 2007.9.6,木 )

*写真はあおいのママの撮影です。(左から横田拓也さん、ジャーナリスト・惠谷治さん、北朝鮮難民救援基金理事長・加藤博さん)

*講演要旨レポートです。聞き取りに間違いやカン違いの可能性もございます。どうぞご了承ください。講演は約23分でした。(主催者よりレポート掲載の許可をいただいております)

【横田拓也さん・拉致被害者 横田めぐみさんの弟】
 皆さん、こんにちは。ただ今ご紹介いただきました、家族会、横田めぐみの弟であります横田拓也でございます。どうぞよろしくお願い致します。座らせてお話させていただきます。本当に日頃から私どもの拉致問題に関しまして、皆さま方の深いご理解と温かいご支援を賜りますこと、改めて御礼申し上げます。ありがとうございます。

 すでにご承知の通り、私の姉は13歳で日本から連れ去られました。1977年の11月です。当時、今もそうだと思いますけども、新潟の11月の夜というのは本当に海鳴りの音と風で空は真っ黒、雲が黒いといったような季節でありまして、小さい子が行くとすぐにでも逃げ出したいような真っ暗な地域であります。引越しをして数ヵ月後に姉は連れ去られました。中学校のバトミントンクラブから友だちと一緒に帰って、その下校途中に別れた後に無残にも連れ去られたわけであります。

 昨年の誕生日で42歳を迎えましたから、本当にもう30年間北朝鮮という食料も着る物も暖かい暖もない、そして一番問題なのは自由と明るい明日が保証されていない、まったく過酷な環境下で今日も生活を強いられていることであります。

 13歳頃の自分たちの気持ちを思い浮かべて欲しいのですけれど、本当に多感な時代であったと思うし、色んな自己実現の希望があった頃だと思います。高校に行ってこんな勉強したいとか、大学に行きたい、こんな会社に入って仕事をしてみたいとか、家庭を持って子どもを持って、どこどこに遊びに行く、こんなものを食べて、と色んなことを思っていた頃だったと思います。

 もちろん私の家庭の中においても楽しい食卓で、姉は格段明るくて快活で、子どもたちの中でもいつも「ヨコ、ヨコ」って呼ばれているような明るい女の子でありました。食卓の中でもいつも話題の中心を持っているような明るい子でありました。ただその事件が起きてからは、私の家庭の中はまったく180度変わって、会話がほとんどないような暗い生活が始まったわけであります。

 しかしこの北朝鮮の日本人拉致問題というのは、確かに私の姉がシンボル的な存在ではありますけども、私たち家族会、そして救う会、今荒木先生ご到着されましたけど特定失踪者問題調査会など、政府が認定している方々だけの救出を目的で活動しているわけではありません。皆さま方から向かって右側にポスターがありますね、あちらにはもう400名以上の方が載っていると思います。この会場にいらっしゃる皆さま方の3倍から4倍の私たちと同じ日本人が連れ去られたままになっているわけなのです。私の姉だけの問題ではないし、政府が認定している人だけの問題ではないのです。

 あちらにいらっしゃる方々が仮にお子さんを授かって、その家庭に2人か3人の子どもがいるとすれば、その数は本当に計り知れない深刻な大きさであるし、私たちはその現実に対してもっと直視直面しなければいけないと思うし、私たち日本人が助けなきゃいけないという気持ちをもっとかたちにしていく必要が私はあると思います。

 今3月末で事実上4月でありまして、窓の外を見れば桜も咲いています。少し前までは冬でした。こうした季節になると私たち被害者家族は本当につらい思いをするわけであります。「今日も食べられるであろうか」「明日は本当に明るく笑顔で起きられるだろうか」「着る物はあるだろうか」「どんな寒い場で寝ているのだろうか」と、いつも冬になると考えてしまう毎日でありました。

 そしてこの春、今、桜が咲いています。めぐみも母も私自身もお花はとっても好きで、桜自体はキレイなんですけれども、私の家庭にある、皆さま方も印象に残っているひとつの写真、校庭の前で撮られた桜の木の下でカバンを持った家の姉の写真を思い出される方いらっしゃると思うのですが、あれは前日に風邪をひいて、父が翌日わざわざ校門の下で桜の下で撮った写真で、その記憶が私自身も昔からありますから、この春になると新しい生活が始まる、というウキウキ感というものではなくて、とっても寂しい花の色になるわけなんですね。

 そして今この季節ですと、お花見といった明るい話題になりがちですが、高齢の私の両親はお花見や行楽・映画館とか行くことすらできないような毎日を送っているのです。色んな被害が二重三重にも繰り返されているわけなんですね。こういった深刻な問題を早く解決してあげなきゃいけないと思います。

 北朝鮮問題、先ほどの難民のお話、安全保障の問題、そして拉致の問題があります。私たちはたまたま拉致の問題を中心に被害者の当事者としてお話をしていますが、北朝鮮問題というのはやはり核の問題もそうでしょうし、弾道ミサイル・偽札・偽タバコ、色んな問題があるわけなんですね。小泉総理が2002年に訪朝されて、5人の被害者当事者とそのご家族が帰って来ることができましたけれど、私の姉を始めとした多くの方々、あちらのポスターのまだ政府が認定していない多くの被害者の方々が帰って来ていないということは、「これは現在進行形のテロである」と強く言い続けていく必要があると思います。どこか遠い所の話ではないし、日朝間だけの問題ではない。

 先ほどのお話でもご紹介があったように、この拉致の問題は日本人だけの被害者の話題ではないのです。私ども家族会・救う会・他の団体が色んな国際的な活動の一環で国々を訪問しています。ジュネーブの国連、ニューヨークの国連、そして国際的な被害者がいるだろうとわかっているタイや韓国、そしてこれからルーマニアにも行く予定で今活動の準備を進めておりますが、もう国際的に大きな被害の様相を呈してきているわけなんですね。そういった問題、私たちはやっぱり黙っていてはいけないと思うのです。

 過去に類は違うかもしれませんが、アウシュビッツの強制収容所の問題が当時もあった時に、隣の国々が目を瞑ってしまったこと、黙ってしまったことが多くの被害を生んだという歴史があるのです。今この拉致問題・人権問題では、私たちのこの日本からすぐ見えるような地域に起こっている問題であります。しかも拉致以外にも現在進行形でありますけども、ミサイル・核の問題というのは、「金正日がその気になってボタンを押せば、20分以内におそらく日本に飛んで来るであろう」と言われています。私たち全員に等しく課せられた危機が今ここにある、ということを私たちが今一度理解した上で、北朝鮮に対する毅然とした態度を堅持していく必要があると思います。

 私たちはこれまで外務省や官邸や議員の皆さま方の所を本当に多く、暑い中も寒い中も足を運びました。官邸の前でも座り込みもしました。「どうして私たち国民の財産や生命を守るはずの官邸に対して座り込みをする必要があるのか?」と疑問に思いながらも、この活動を大きくする上で、そして国民の皆さま方に知っていただく上で、そういった活動をせざるを得なかった、ものすごく苦い時間・事実があります。

 しかし先ほどの特定失踪者のご家族の方々もおっしゃっていましたが、歴史は大きく変わって安倍総理が政権を担われて、私たち家族会は9月の26日だったと記憶しているのですが、官邸で安倍総理にお会いする機会をいただきました。皆、口を揃えて「初めてこんなうれしい気持ちでこの門をくぐることができるよね」と言っていました。今までは「コメの支援をしない」と言っていても、その翌日に平気でやってしまうような方々が多くいました。しかし今、日本政府は安倍さんをリーダーにしてこの問題に毅然と立ち向かって、北朝鮮の安全保障上の問題、そして拉致被害者についてまったく誠実な態度を示そうとしない北朝鮮に対して、制裁を圧力を加え続けているわけであります。

 昨日の産経新聞にも書いてありましたけれども、日本政府は今回の六者協議・日朝作業部会を始め、未だに北朝鮮が誠実を見せない態度に対応するかたちで経済制裁を実施中でありますが、4月中旬にその期限が切れようとしています。その期限を半年間延長しようということでほぼ進めている、ということが書かれていました。大歓迎でありますし、私たちはもっと声を上げて、日本政府の後ろ支えをしていく必要があると思います。

 皆さま方の中には首相官邸のホームページご覧になった方いらっしゃると思いますが、こういった“拉致”という、政府が広報するかたちで、官邸でビデオを見ることができます。これは官邸のホームページにダイジェスト版が載っているようでして、今ここにあるのはフルストーリーのバージョンですが、こういったもので一杯一杯政府も活動をしています。そしてこういった小冊子、簡単なこれまでの取り組みや被害者のリストを政府が作って、各機関、我々国民にも配布ができるようなツールも作っているわけであります。今までにないくらい大きな活動をしています。

 ただここで私たちも「それではよかったね」と甘えていてはいけないと思います。やっぱりそこはさらに安倍総理に対して正しい意味で堅実な意味でもっと声を発していって、彼がもっと動くようにしていって、そして北朝鮮に対する圧力をもっと強めるために、私たちが声を上げていく必要があると思います。

 あと、先ほど過去に行われた日朝作業部会とか六者協議のお話もありましたけども、我々は国としては認定していませんが便宜上国と申し上げますが、北朝鮮がどういう相手かということを、もう一回整理していく必要があります。これは例えば横田家だけの問題において申し上げると、皆さま方のご記憶新しいと思うのですが、人権に明らかに反するような人の骨を平気で出して来る相手、だということです。

 私たち日本人の文化の中で、親とか家族とか骨とかっていう、生きる死ぬっていうことの意味とても大きいですね。そういったものに対して、自分たちが国家の人権侵害・領海侵犯をして来たにもかかわらず、そして13歳で何も知らない一人の少女を奪っておきながら、さらにその30年後に「これはあなたの子どもの骨ですよ」と平気で言いのけてしまう、その目的が単に自分の政権を維持させたいがための話なのです。北朝鮮はこういったおよそ文明社会ではありえないような非道な相手だということです。日朝作業部会においても六者協議でも自分の都合に悪ければ勝手に帰ってしまう、こういった我々のおよそ常識というものが通じない相手であるわけです。

 そして先ほども申し上げたように、この拉致問題というのは現在進行形でありますから、テロが未だに我々の身辺にかかっているということなのです。私は皆さん方に危機を煽るわけではありませんが、私たちの家族やきょうだい・お友だちが、今日夜電話してみたらいないかもしれない、そういったもう迫った問題である、ということを私たちはもっと理解して、北朝鮮に対する圧力をかけなければいけません。

 じゃあ私たちに何ができるんだ?ということであります。国会議員でもないし外務省の役人でもないし、できること確かに少ないし小さいです。言ってしまうとできないことの方が多いと思うのですが、私たちが北朝鮮と違うのは民主主義であるということ、声を発して民意を形成してそれを政治に活かせるということであります。

 先ほど申し上げたように、例えば首相官邸のホームページにメールを出すこともでき意見を言うことができる。警察にも各議員の皆さん方にも色んな所に対して手紙や電話・ホームページのメールで「拉致問題の取り組みが浅いのではないか」「甘いのではないか」「圧力が弱いのではないか」「こうするべきだ」と言い続けていく。そして願わくば皆さま方のお友だち、職場等のご友人に例えば「土曜日に誰々さんに会ってこんな話聞いてきたよ」とか、もっと例えば国際的にお友だちがアメリカやルーマニア、タイにいらっしゃる、そしたら「そこに被害者がいるからちょっと情報取ってくれないか?」といったほんの小さなお口添えが、国際的な圧力の包囲網につながるわけであります。

 これが北朝鮮にできなくて日本にできることだと思います。こういった力を加え続けていくことがとても大事だし、私たちのようないつでも倒れそうな弱い存在を支えてくださっている大きな力の源である、ということをお伝え申し上げます。

 あともう一つ。先ほどお話がありましたが、難民が中国に逃げて来ても(北朝鮮に)返されてしまう、という大きな問題があることです。ここで中国問題を語るつもりはありませんが、北朝鮮以上に日本にミサイルが向いているのは中国であり、せっかく圧政下から逃げて来た人間をもう一回返してしまうことも事実あるのです。こういったことを私たちは日本人の拉致問題だけにこだわるのではなく、もっと大きな問題が実は背後にあり、と知っていく必要があると思います。

 北朝鮮国内にはこういった難民の他に、子どもたちが飢餓に苦しんでいる写真や映像などを何回もご覧になったと思いますけど、食べる物や暮らす所がなく自由に意見を言い合う場がないのです。子どもたちは食べる物もないのに、日本や他の国々に輸出するため、例えばあさりとか松茸を採るよう働かされられているということなのです。今は経済制裁でそういった輸入はストップしていますけど、平気で食べ続けていいのか?私たちはやはり向こうの国民も苦しんでいて、同じ人類として苦しんでいる命を助けなければいけないという大きな視点に立って、この問題に向かい合っていく必要があると思います。

 2002年日朝平壌宣言の時に政府の専用機が来て、私の姉も大変期待をしたと思いますし、そして帰った時にはとても悲しんだと思います。姉以外の多くの被害者の方が「また取り残されてしまった」という悲しみ・苦しみに遭ったと思います。それと同じ気持ちを、おそらくちょっと違うとは思いますけど、北朝鮮の方々も「早く逃げたい」「早く食べたい」「早く自由になりたい」と思っているはずなのです。そういった気持ちを同じ人類として、隣の国にいる私たち日本人が人権を前面に出していくことが大事だと思います。

 それをどうか皆さま方の最寄りの議員さんの方々に「取り組みがもう少し具体的になるべきではないか」と言っていくことが大きな力にもなり、これが先ほどの話にもあった地方から国に対して、国が対外交につながっていく大きな原動力になると思いますので、ぜひともお願いしたいと思います。

 時間も余りないので少しだけ。最近家族会が10年経ってしまったという話があります。その点ちょっとお話したいのですが、姉は30年前に拉致をされて、その他のご家族も30年以上前に拉致をされた経緯があるのですが、家族会が結成されたのは1997年であり10年前です。その時から色んな理由があって家の父が代表を務めさせていただきました。今両親は70歳を越えており大変つらい中にあるわけなのです。これまでも1000回講演を行って日本全国をもれなく訪問し、その他にも政府の協議があったりマスコミとの対応があったりで、本当に休む暇もなく寝る時間もないという生活を毎日過ごしているのが実情であります。

 そしてご存知のように、一昨年の12月に父が薬の関係もあるのですが倒れてしまい、医者からも「死を覚悟してください」と私たちは言われました。本当に死の淵まで行って何とか耐え抜いて今ここにいる、というのが現実です。母も普段からあまり不平不満やつらいとか口にする人間ではないのですが、やはり歳もあって精神的なストレスもあって、もういつも「ここが痛い、ここがつらい」と平気に口にしてしまうような毎日を過ごしています。

 姉もつらい。早く助けてあげたい。そして両親も早く心から笑えるような時間を授けて普通の暮らしをさせてあげたいし、冒頭に言った例え話ではありませんが、本当に何気なく普通に桜の下で「今日の花キレイだね」というような時間を早く作ってあげたい、というのが私の本音であります。

 しかしこれは私たち家族だけに与えられた問題ではなく、もっと大きな問題からアプローチすると、これは日本人全員に課せられた問題でもありますから、この問題を自由を勝ち取るために、私たちは安倍さんをもっとバックアップして、さらに要求するものは要求して、人権を無視した人質外交を繰り返している北朝鮮に対して「絶対に譲歩しない、負けない」という気持ちで戦って行くことが大事だというふうに思います。

 その中で家族会代表を10年間やってきて、父も75歳になって解任をするかしないかという話があります。実際は来月(4月)の22日に家族会総会がありますから、その場で皆さんに表明して、どうするかということの方向性を作っていくという予定ではありますが、ただ会社組織のように人材が多くいるわけではありませんから、後任に誰がなる、どうするっていうことが実際になかなか難しい話ではあるんですね。

 ただ10年間経った75歳という節目でもあるということ、やはり私が一番身近にいて思うのは、父が肉体的にも精神的にも限界にあるのは事実でありまして、このまま無理をしていけば一昨年の12月のようにまた「死の淵をさまよう」と宣告されてしまいかねないのです。そういう意味では個人的に早く楽をさせてあげたいし、あとはその先にある本当のゴール、自分の娘を始めとして多くの被害者を全員取り戻して、日本が外交上勝利することはもちろん、晴れて人権の問題で勝ったのだと宣言していきたいと思っています。

 最後に宣伝的な話になるのですが、皆さま方の資料の中にも入っている4月22日日比谷公会堂のチラシ、もうこれも「何回やればこの問題解決するんだ」ということで、毎年「来年はやらないでいこうね」と誓い合いながらまた今年もやる羽目になってしまうのですが、また国民大集会をやります。世界的に拉致の被害が多く起きていると申し上げましたが、そのご家族もこちらに呼んで国際的な連携を謳う予定であります。

 私たちがその場に集って一体感を持って、その数時間後に北朝鮮は「そこの会場に国民がこの問題に許さないという気迫を持った時間があった」ということを知っているのです。それほど気にしていますから、私たちが集まって声を上げていくのはとても力になります。どうか今日もですが、お休みのところ大変恐縮ではあるんですが、お時間が許せばお友だちも誘いの上ぜひお集まりいただき、この問題と引き続き向き合っていただき、私たちと共に戦ってくださればと思いますのでよろしくお願い致します。

 私は家族の立場からしかものを申し上げられませんが、あの本当に今戦いどころはいいところまで来ていると思いますし、先ほどの惠谷先生のお話でもありましたように、若干今までの雲行きとは違うところはあるのですが、「日本が孤立している」ということは私はないと思っていますし、信じています。

 そのためには私たちは気負うことなく、北朝鮮に対してもアメリカに対しても国際社会に対しても訴え続けるってことが、この問題を絶対に忘れさせないことにつながると思いますので、どうぞ引き続き私どもと戦ってくださることをお願いしたいと思います。よろしくお願い致します。ありがとうございました。(大拍手)

終わり

*3/31 第16回藤沢市民集会 横田拓也さん(拉致被害者横田めぐみさんの弟) aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/54970497.html

9/2 TBS「報道特集」脱北拉致被害者 祖国へ苦難の帰還
( 2007.9.5,水 )
*9/2TBS放送の「報道特集」の一部を文字化しました。番組は韓国の拉致問題についての内容で、放送は約20分間でした。

「世の中にこんなことがあるのか!」拉致被害者がついに脱北、しかし祖国は・・・。「あなたは韓国政府に税金を納めたのか!」連れ去られた自国民への仕打ち、そして。「本当に本当にうれしい・・・」脱北拉致被害者、その苦難の帰還を追った。

苦難!脱北した拉致被害者たち

【司会者・田丸美寿々さん】(スタジオにて)
 「こんばんは、報道特集です。昨日今日と行われました米朝協議でも相変わらずのしたたかさを見せつけている北朝鮮なんですが、来月行われる予定の韓国との南北首脳会談でも、さらに影響力を見せていきたい狙いがあるようです。で、その南北首脳会談でもしかしたら進展が見られるかもしれない問題、韓国人の拉致問題についてまずはお伝えしたいと思います。これは日本にとっても気にかかる問題です。」

苦難!!脱北した拉致被害者

【ナレーター】
 出発する列車。今年5月(17日)に行われた南北縦断鉄道の試験走行です。軍事境界線を列車が通過したのは56年ぶりのことです。しかし・・・。「こいつら放せと言っているんだ!」列車の走行に激しく抗議する反北朝鮮団体。太陽政策を推し進める盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権も糾弾しています。その中に・・・。

【韓国拉致被害者家族】VTR
 「私たちは30年以上北朝鮮にいる親兄弟に会えないでいる。政府は北朝鮮に援助するばかりで、拉致被害者に対して何の成果もないじゃないか!」

【ナレーター】
 座り込んで政府に抗議する拉致被害者の家族。韓国人の拉致問題は国民の関心が薄く大きく広がりません。しかし実は新たな段階を迎えています。

 杖を突きながら街を歩く男性。彼の名は陳正八(チン・ジョンパル 66)、韓国人拉致被害者です。北朝鮮で35年間暮らし2001年に脱北。現在は韓国・釜山で生活しています。彼のように脱北した拉致被害者はわかっているだけで6人存在します。

【記者】
 「ここから船に乗ったんですか?」

【韓国人拉致被害者・陳正八(チン・ジョンパル)氏】
 「ここから乗って仁川(インチョン)で操業していましたが、1ヶ月後に拉致されました。」

【ナレーター】
 1967年4月、26歳だった陳正八(チン・ジョンパル)氏は黄海で操業中、武装した北朝鮮の船に襲撃されました。

【韓国人拉致被害者・陳正八(チン・ジョンパル)氏】
 「漁船だと思ったら銃を撃ってきたんです。自動小銃と機関銃でした。拉致される時、甲板長のチャさんの腹に銃弾が貫通して死亡しました。」

【ナレーター】
 船に乗った北朝鮮の兵士は漁師に偽装して接近。いきなり複数の人間が銃を乱射して威嚇したといいます。銃撃された甲板長が死亡。陳正八(チン・ジョンパル)氏ら13人は北朝鮮に連れ去られました。

 昨年度の北朝鮮人権白書によると、陳正八(チン・ジョンパル)氏のような韓国人拉致被害者は、政府が認めているだけで480人以上に上ります。日本の拉致被害者と同じように海岸から連れ去られたとされる事件もありますが、漁船で拿捕され北朝鮮に連れ去られたケースがほとんどです。

 「同じような拉致被害者を多く見た」と言う陳正八(チン・ジョンパル)氏。厳しい思想教育を受けました。

【韓国人拉致被害者・陳正八(チン・ジョンパル)氏】
 「教官に『偉大なる首領金日成同志の革命思想で武装しろ』と言われ我々はこう言います。『貫徹する、貫徹する』と。」

【ナレーター】
 思想教育の後は地方の炭鉱にある機械工場で働きました。しかし故郷のことを思い出さない日はありませんでした。

【韓国人拉致被害者・陳正八(チン・ジョンパル)氏】
 「私たちが酒を飲んだ時『故郷に帰してくれ!』と騒ぐので、幹部たちが来て『お前たちは永遠に帰れないのだから、一生懸命勉強して社会に出ることを考えろ!』と言われました。永遠に家族と別れて暮らさないといけないと思いました。」

「♪故郷が懐かしくとも 行けない身体♪」

【ナレーター】
 北朝鮮にいる当時歌っていた“故郷”という歌。陳正八(チン・ジョンパル)氏は35年間を北朝鮮で過ごし2001年に脱北。韓国に残した家族とも再会できました。しかし北朝鮮でも結婚し子どもをもうけていて、今は「北朝鮮に残した家族が心配なのだ」と言います。

 2000年に行われた南北首脳会談。両首脳は離散家族の再会などで合意しました。しかしこれによって韓国人拉致被害者が帰って来ることはありませんでした。

 その後、韓国政府は拘束されながらも思想転向しなかった“非転向長期囚”63人を北朝鮮に送還。この中には、原敕晁(はら ただあき)さんらを拉致した辛光洙(シン・ガンス)容疑者も含まれています。

脱北拉致被害者に祖国は・・・

【韓国人拉致被害者・李在根(イ・ジェグン)氏】
 「軍人が完全武装して船に上がってきて、空砲を撃ちながら『降りてこないとみんな殺す』と大声を上げました。」

【ナレーター】
 こう話すのは、1970年に拉致された漁師・李在根(イ・ジェグン 68)氏。ペンニョン島付近で漁船が拿捕され、北朝鮮に連れ去られました。

【韓国人拉致被害者・李在根(イ・ジェグン)氏】
 「機関長が『みんな死んだも同然だ!』と言って泣いていました。どういうことかわかりませんでしたが、北に行ったらその言葉通りでした。」

【ナレーター】
 李在根(イ・ジェグン)氏は工作員を養成する大学に行かされ、24時間泳ぎ続けるなどの厳しい訓練の後、結局造船関連の工場で働かされました。拉致されてから29年後の1999年、中国東北地方の農村に李在根(イ・ジェグン)氏は潜伏していました。

【記者】VTR
 「北朝鮮から脱出してこられた李在根(イ・ジェグン)氏です。いつ来られましたか?」

【韓国人拉致被害者・李在根(イ・ジェグン)氏】
 「今日来たばかりです。」

【ナレーター】
 これは脱北直後に韓国の地方局・大田(テジョン)テレビが撮影した映像です。車に乗る李在根(イ・ジェグン)氏、涙をこぼしています。中国潜伏中、彼は瀋陽の韓国領事館に行ったり、北京の韓国大使館に電話をかけて自らが拉致被害者であることを説明しました。しかしたらい回しにされ、韓国への帰還ができずにいたのです。

 青島(チンタオ)の韓国領事館員との会話も残されています。

【韓国人拉致被害者・李在根(イ・ジェグン)氏】VTR
 「あなたに迷惑をかけたくないけど、何とかして韓国に行く方法はないですか?」

【韓国領事館員】
 「あなたは税金を払いましたか?韓国に税金を納めたんですか?」

【ナレーター】
 「韓国に税金を納めたのか」と言われた李在根(イ・ジェグン)氏。絶望の中、中国で自給自足の生活をしていました。

【韓国人拉致被害者・李在根(イ・ジェグン)氏】VTR
 「私の故郷だと思ってやって来たが、同胞同士でこんなことがあるのか!耐えられない。他人にご飯を恵んでくれと言ってもこんなふうに追い返したりはしないだろう・・・」

【ナレーター】
 しかし事態は急変します。テレビ局の記者たちが取材をしていることがわかると領事館員は直ちに謝罪、帰還に便宜を図ったのです。

 現在ソウルで暮らす李在根(イ・ジェグン)氏。北朝鮮では28年、中国では2年暮らしました。彼は政府が拉致被害者を帰国させた日本のことを例に挙げてこう話しました。

【韓国人拉致被害者・李在根(イ・ジェグン)氏】
 「この国は拉致されてから脱出して『中国まで来たから助けてくれ!』と頼んでも知らん顔をする。そんな国が大韓民国以外のどこにあるのか!北朝鮮の大使館に行ってもこんな待遇はしないよ。」

【ナレーター】
 脱北した拉致被害者のほとんどが韓国政府の冷淡な対応を訴えています。その中には世論からさらに大きな批判を受けたケースがあります。

 ダンボールを集めているこの女性の夫もそんな拉致被害者の一人でした・・・。

脱北拉致被害者を待つ妻

【ナレーター】
 生活のためダンボールを集めて回るこの女性は拉致被害者の妻です。

【拉致被害者の妻・梁正子(ヤン・チョンジャ)さん】VTR
 「こんなふうに生きているのを子どもたちもわかってくれないしね・・・。」

【ナレーター】
 梁正子(ヤン・チョンジャ 66)さん。1975年に夫・崔旭一(チェ・ウギル)さんの乗った船が行方知れずとなりました。しかし20年以上経った1997年、1枚のファックスが送られてきます。そこには北朝鮮の女性と結婚し、新しい家庭を持った夫の姿がありました。

【拉致被害者の妻・梁正子(ヤン・チョンジャ)さん】VTR
 「向こうから『会いたい』と言ってくれば会いたい。でもどうやって会うの?私はお金もないしね・・・。」

【ナレーター】
 この取材を行った一昨年、夫はまだ北朝鮮で暮らしていました。しかし去年の12月、夫が「脱北した」との知らせが入ったのです。

 写真を見つめる男性。額にケガをしています。梁正子(ヤン・チョンジャ)さんと脱北ばかりの夫・崔旭一(チェ・ウギル)さんです。中国で再会しました。これを撮影したのは韓国の新聞・朝鮮日報の安剄求iアン・ジュンホ)記者です。

【朝鮮日報・安剄求iアン・ジュンホ)記者】
 「初めて会った時には北朝鮮の監視員がついてきていたので、梁正子(ヤン・チョンジャ)さんも崔旭一(チェ・ウギル)さんも再会で感激を表に出すことはできませんでした。その後、移動してから感激の再会をしたのです。」

*拉致被害者チェ・ウクイルさん、妻と感動の再会(上) 朝鮮日報より
http://www.chosunonline.com/article/20070105000039
*拉致被害者チェ・ウクイルさん、妻と感動の再会(下)
http://www.chosunonline.com/article/20070105000040

【ナレーター】
 崔旭一(チェ・ウギル)夫妻は監視員を振り切った後、瀋陽の韓国領事館に電話をしましたが、たらい回しに遭います。やっとのことで担当者の携帯電話番号を聞き出しましたが・・・。

【韓国人拉致被害者・崔旭一(チェ・ウギル)氏】VTR
 「故郷の韓国に帰って暮らすという覚悟で今北朝鮮を脱出してこちらに来ました。それで・・・、電話番号ですか?どうしてわかったかですか?」

【ナレーター】
 担当の領事館員は「携帯電話番号を誰に聞いたのか?」と問い詰めるばかりで対応しません。さらに「脱北者の問題は扱わない」と言います。

【拉致被害者の妻・梁正子(ヤン・チョンジャ)さん】VTR
 「もしもし、もしもし、崔旭一(チェ・ウギル)の妻です。拉致された崔旭一(チェ・ウギル)の妻です。本当に韓国人です。脱出してきたんです!家族が連れて帰ろうとしているんです!だから言っているじゃないですか!!」

【朝鮮日報・安剄求iアン・ジュンホ)記者】
 「奥さんは泣き続け、旦那さんは呆然自失でした。『どうか記者さん、助けてください!』と私の手を握ってその言葉しか言いませんでした。」

*韓国領事館が自国民を見捨てた! 朝鮮日報より
http://www.chosunonline.com/article/20070105000046

【ナレーター】
 安記者は朝鮮日報でこの問題を伝えました。すると領事館員の対応に大きな批判が沸き起こりました。

 韓国・仁川(インチョン)国際空港にいるのは、妻・梁正子(ヤン・チョンジャ)さん。(2007年1月)

【拉致被害者の妻・梁正子(ヤン・チョンジャ)さん】VTR
 「本当に本当にうれしいです。夫に会わせてくれたし。私にはもう夫がいるから・・・、うれしいんです。」

【ナレーター】
 今年1月、拉致被害者・崔旭一(チェ・ウギル)さんは31年ぶりに韓国に帰還しました。

脱北拉致被害者が涙の再会

【ナレーター】
 ソウルで開かれた拉致被害者や家族の集会。この席に帰還した拉致被害者・崔旭一(チェ・ウギル)さんの姿がありました。

【韓国人拉致被害者・陳正八(チン・ジョンパル)氏】VTR
 「陳正八(チン・ジョンパル)だ!」

【韓国人拉致被害者・崔旭一(チェ・ウギル)氏】
 「おお、陳正八!」

【ナレーター】
 祖国への生還を喜び合う拉致被害者たち。彼らは北朝鮮の教育機関で会い、思想教育を受けていました。苦難を共にした仲間と数十年ぶりに再会したのです。(泣きながら抱き合う映像)

【韓国人拉致被害者たち】VTR
 「本当に本当に生きていたんだなぁ・・・」
 「おれたちも来たんだ!」
 「本当に本当に生きて帰って来たんだ!」

【韓国人拉致被害者・李在根(イ・ジェグン)氏】
 「(拉致被害者)600人全員いつになったら来るんだ、もどかしいよ。」

脱北拉致被害者の叫び!

【ナレーター】
 現在、韓国政府が認める拉致被害者は480人余り。しかし「実態はそれをはるかに超える数がいる」と言われています。政府も認定していない拉致被害者が脱北し帰還するケースさえありましたが、北朝鮮は公式に韓国人拉致を認めておらず、韓国政府も及び腰です。

 拉致被害者の救出活動を続ける崔成龍(チェ・ソリョン)会長はこう訴えます。

【拉北者家族の会・崔成龍(チェ・ソリョン)会長】VTR
 「私たちの望みは生死の確認ですが、韓国政府はできないでいます。北朝鮮に要求一つしないでいるのです。だったら我々同胞は何なんですか?我々は何をしているのですか?」

分断国家の悲劇 脱北拉致被害者

【司会者・田丸美寿々さん】(スタジオにて)
 「はい、拉致被害者に対して韓国政府の対応があまりに冷淡に見えますけれども、まぁその背景はかつて冷戦時代、“分断国家”という状況下で、拉致被害者の家族も『北のスパイ』と見られて監視が付くような時代がありました。さらに近年、太陽政策になってからは今度は北朝鮮に遠慮して表立って批判ができない、という事情があります。

 拉致被害者そしてその家族たちは、厳しい時代を続けてきたわけなんですが、しかし来月の南北首脳会談では初めて韓国政府が『この拉致問題を議題として提示することを検討している』ということです。ここへきてようやく韓国政府の対応にも変化が表れてきたと言えそうです。」

(ディレクター 山本将文さん 吉田豊さん)

終わり

*9/2 TBS「報道特集」脱北拉致被害者 祖国へ苦難の帰還 aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/53994224.html

9/2 テレビ朝日「サンデープロジェクト」(2)北朝鮮の“大水害” 〜首脳会談延期の隠れた真相〜
( 2007.9.4,火 )
*9/2放送の「サンデープロジェクト」の特集を文字化しました。(放送は約30分間)今回(2)で終了です。

*9/2 テレビ朝日「サンデープロジェクト」(1)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/53810861.html

続き

首脳会談延期の真相 A「10月初旬」〜 金正日政権の秘策

【ナレーター】
 北朝鮮で配給制が崩れ、市場経済が広がったことで進行したのは、忠誠心と統制の乱れだ。さらに今、韓国の実情が中朝国境を通じて流れ、北朝鮮国内に広がっている。

【記者】
 「北朝鮮で韓国ドラマを見たか?」

【脱北女性・北朝鮮の元労働者(先月脱北)】
 「多くの人が見ています。」

【記者】
 「どんなドラマを見た?」

【脱北女性・北朝鮮の元労働者(先月脱北)】
 「“冬のソナタ”。韓国ドラマを見ているとうらやましくてたまりません。早く統一して韓国のような生活がしたいです。」

【ナレーター】
 こうした情報の流入は金総書記への批判をも生んでいる。

【脱北男性・北朝鮮の元労働者(今年7月脱北)】
 「(金総書記以外の)他の人が政権を握って国を開放すべきです。人民の唯一の望みは、衣・食・住が整った暮らしなのです。」

【ナレーター】
 こうして統制と忠誠心の乱れが起きる中、首脳会談にはどういう意味があるのか?2000年の南北首脳会談では、金大中(キム・デジュン)大統領が平壌を訪問し、次は金総書記がソウルを訪問する合意が交わされた。ところが今回も盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が北朝鮮を訪問することになった。ここに重大な意味があるという声がある。

【ジャーナリスト・池東旭(チ・ドンウク)氏】
 「儒教社会っていうのは、とにかく目下の者が目上の人を訪ねて行くということになっているんですよ。(北朝鮮の人々は)平壌にみんな頭下げて来ると思っているんです。またそういうような演出効果があるんですよ。訪ねて行く方が(格が)下ってことになっていますからね。」

【ナレーター】
 しかも北朝鮮は10月初めに延期を提案してきたが、10月8日は金総書記が朝鮮労働党総書記に就任した記念日。10月10日は同党の最も重要な創立記念日だ。韓国の政治学者・南柱洪(ナム・ジュホン)教授は言う。

【京畿大学・南柱洪(ナム・ジュホン)教授】
 「北朝鮮が10月初めを選んだのは、高度に政治的な計算からです。10日の労働党創立記念日に合わせて韓国が大規模な経済協力を約束したら、それは北朝鮮で金正日政権の権威を高めることにつながるからです。」

【ナレーター】
 しかし「南北首脳会談が10月に延期になった本当の理由は別にある」という見方もある。それは「韓国側ののっぴきならない事情」だと言うのだ。

【ジャーナリスト・孫光柱(ソン・グァンジュ)氏】
 「南北首脳会談を強く望んでいるのは盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の方です。」

首脳会談延期の真相 B大統領の思惑〜 政権交代は“監獄への道”

【ナレーター】
 何故韓国政府は首脳会談を望むのか?それは12月の大統領選に向け、野党の李明博(イ・ミョンバク)候補が大きくリードし、このままでは二代続いた左派政権が終わってしまうため、首脳会談で統一風を吹かせて一気に逆転を狙っているためだといわれる。(与党候補@6.1%、A2.5%、B2.9%、野党・李明博候補59.3%)

【ナレーター】
 首脳会談8月開催の第一報を受け、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権を生み、左派のキングメーカーといわれる金大中(キム・デジュン)前大統領は手放しで賞賛した。

【金大中(キム・デジュン)前大統領】
 「発展の時代、和解の時代、安定の時代、そんな時代に進めるのではないか。」

【ナレーター】
 与党側は何故ここまで必死なのか?

【ジャーナリスト・池東旭(チ・ドンウク)氏】
 「歴代大統領が辞めた後、非常にみんなひどい目にあったわけなんですよね。これからですよ、もし政権が代わればあらゆるかたちでこの二代続いた左派政権の色んな恥部が出てくると思うんですよ。本当にはっきり言ってね、もう後ろに手が回る可能性だってあるわけなんですよ。」

【ナレーター】
 現に韓国では全斗煥(チョン・ドファン)・盧泰愚(ノ・テウ)の両元大統領が退任後、不正蓄財容疑で有罪となり8ヶ月服役した。(後に恩赦)その意味では金大中前大統領も例外ではない。先月8日に流れた映像では車椅子姿を披露して、糖尿病の悪化などの健康不安も取りざたされる金大中氏の場合、ある特別な過去があったのだ。

首脳会談延期の真相 Cキングメーカーの危機〜 ノーベル賞と現代会長の“怪死”

【ナレーター】
 歴史的だった2000年(6月)の南北首脳会談。これは金大中(キム・デジュン)前大統領にノーベル平和賞の栄誉をもたらした。(2000年12月)その2年後、アメリカ議会調査局の報告書(2002年3月)をきっかけに、韓国側から北朝鮮に4億5千万ドルが不正に送金されていたことが発覚。その中の1億ドルは会談実現の裏金と見られた。

 裏金とされた1億ドルを含む北に送金された4億5千万ドルの中身はこうだった。5千万ドルは金大中氏に近い財閥・現代(ヒュンダイ)グループが出し、残りの4億ドルは金大中氏の側近・朴(パク)大臣が政府系金融機関に圧力をかけて現代グループに融資させたものだった。現代グループの鄭夢憲(チョン・モンホン)会長も会見でこう認めていた。

【現代グループ・鄭夢憲(チョン・モンホン)会長】(当時)
 「現代グループの対北朝鮮送金が南北首脳会談の成就に一部寄与したことは事実だ。」

【ナレーター】
 そして政府系金融機関に圧力をかけて融資させた金大中氏の側近・朴知元(パク・チウォン)元大臣が、職権乱用容疑などで逮捕。焦点は金前大統領が不正送金を承知していたかどうかに絞られた。

 この崔(チェ)記者は、ある政府高官の陳述書にあるという金大中氏の言葉をこう述べた。

【朝鮮日報・崔宰赫(チェ・ジュヒョク)記者】
 「『1億ドルなら適当ではないか』と金大統領は言った。」

【ナレーター】
 ここで言う「1億ドル」とは金正日政権へのプレゼント、つまり裏金だ。したがって金前大統領にはこうした批判が浴びせられた。

【ジャーナリスト・趙甲済(チョ・カブチェ)氏】
 「金大中氏はノーベル平和賞のため不法な金を出したのです。」

【ナレーター】
 しかし2003年7月、金大中氏の後継者・盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が捜査終結を宣言。そして翌月・・・。

【韓国MBC】(2003年8月)
 「現代グループの鄭夢憲(チョン・モンホン)会長が明け方、本社ビルから投身自殺した模様です。」

【ナレーター】
 疑惑のカギを握る人物だった鄭夢憲(チョン・モンホン)現代グループ会長が飛び降り自殺。(2003年8月4日)事件は「鄭会長や朴元大臣らの独断」ということで処理されて終わった。しかし、この不正送金疑惑などで金大中氏の関与を疑う声は今もあり、「政権交代後に逮捕される」という噂も消えていない。池(チ)氏は言う。

【ジャーナリスト・池東旭(チ・ドンウク)氏】
 「彼ら(金大中・盧武鉉両氏)としたらどんなことがあってもね、もう保守の政権というものを、これは阻まなきゃいけないというのはね、絶体絶命の個人的な問題もあると見ているんですよ。」

【ナレーター】
 首脳会談をテコに、是が非でも後継の与党候補を大統領選で勝たせなければならない盧武鉉・金大中の両氏。だが何とここへきて「10月の首脳会談も行われない」という予測が出ているのだ。それは何故か?

「南北首脳会談中止」説 急浮上の真相

【ナレーター】
 8月の首脳会談延期の背景は、「前回のように北朝鮮が巨額の金を要求したが、韓国側と折り合いがつかず、水害を口実に延期した」という見方がある。ジャーナリストの趙(チョ)氏も言う。

【ジャーナリスト・趙甲済(チョ・カブチェ)氏】
 「今回も北朝鮮は韓国に対し金銭を要求していると思います。しかし前のように国民を騙して何億ドルも送ることは今回は難しいでしょう。もう一度首脳会談が延期される可能性もあるし、次の政権まで中止する可能性もあると思います。」

【ナレーター】
 前回のような資金調達はさすがに出来ず、送金に使った銀行(中国銀行マカオ支店)は金融制裁の影響で今は使えず送る手段はない。「金銭問題が折り合わなければ10月も中止になる恐れがある」というのだ。そうした見方は与党系の元議員からも出ている。

【元民主党議員・張誠a(チャン・ソンミン)氏】
 「北朝鮮は支援を得た上で大統領選にも影響を与えて、与党候補に勝って欲しいと思っています。でも会談をやっても盧武鉉政権から期待した支援が得られず、大統領選にもあまり影響を与えられないと判断したら、会談を中止してしまう可能性もあると思います。」

【ナレーター】
 首脳会談のため前回のように金を送ることが出来ないなら、今考えられるのは大規模な経済支援しかない。盧武鉉政権では、2年ほど前から“ニュープロジェクト”と名付けた最大数十兆円規模の経済協力を検討してきた。それは開城(ケソン)と新義州(シニジュ)を結び北朝鮮を縦断する高速道路の建設や、南浦港(ナンポコウ)の開発、南北の自由貿易協定など、目が眩むほどの巨大スケールだ。このプロジェクトを初めて報じた朝鮮日報の安(アン)記者は言う。

【朝鮮日報・安勇R(アン・ユンヒョン)記者】
 「それは“ニュープロジェクト”と呼ばれています。どの企業も前回の現代グループの二の舞は避けたいと思っており、今回の首脳会談では金銭ではなく大規模投資というかたちで支援を行うと見られています。」

【ナレーター】
 しかしこうした大規模支援は時間がかかり、しかも巨大なリスクが生じる。つまり事実上今年限りで退任する盧武鉉大統領と“ニュープロジェクト”で合意しても、選挙で野党候補が勝てばすべてがご破算になるリスクだ。したがって「北朝鮮は10月に無理してまで首脳会談をしない」という見方が浮上しているのだ。

 最後に与党系の張(チャン)元議員はこんな皮肉な見方を述べた。

【元民主党議員・張誠a(チャン・ソンミン)氏】
 「今回、盧武鉉大統領と会談しても北朝鮮が期待したほどの経済支援が見込めなければ、次の政権と会談しようと考えるでしょう。だから逆に言えば、年内に首脳会談が実現した場合は、北朝鮮の期待する経済支援がもらえると韓国政府から保証をもらったことを意味しています。」

水害?金?それとも・・・ 南北首脳会談延期の真相

【アナウンサー・寺崎貴司さん】(スタジオにて)
 「さぁ重村さん、会談延期の本当の理由はこれどういうふうに考えたらいいんでしょうか?」

【早稲田大学・重村知計教授】
 「はい、まぁ平壌ではですね、『首脳会談は二つの条件があった』と言われています。一つは“面会料”。金大中大統領は前回の首脳会談で5億ドルの“面会料”を払っている。しかし北朝鮮側は本当はね、『10億ドルの約束だった』という。『残り(あと5億ドル)来なかった』とか言っているんですね。ですから今回も5億ドル以上欲しい、しかしなかなか送金手段が見つからない。

 もう一つは、金日成主席の遺体を安置している『“錦繻山(クムッサン)宮殿への参拝”をしてくれ』と。これは参拝しないと金正日総書記の面子が潰れるわけですよね。で、金大中大統領は前回参拝しなかった、ということになっているんですが、アメリカの情報機関はですね、『実は15分間の空白の時間があってこの時間に行った可能性がある』と言っている。どうもこの二つが最終的には折り合いがついてないのではないか?と言われているんですね。」

【アナウンサー・赤江珠緒さん】
 「うーん。さぁそして12月の大統領選なんですが、北朝鮮側は与党も勝たせたいわけですね。はい、今の支持率、これ見ますと与党は不利なんですが、重村さんは最後は大接戦になるとおっしゃっていましたね?」

【早稲田大学・重村知計教授】
 「そうですね、あの韓国の選挙は何が起こるかわかりませんので。盧武鉉大統領も9月頃はですね、前回の選挙で10%台の支持率だった。それがまぁ鄭夢準(チョン・モンジュン)さんとの候補一本化に成功して、11月からの1ヶ月で逆転したんです。ですから与党としては南北首脳会談を風にして勝ちたい。韓国の政治は“風の政治”と言われている。『風の吹いた方が一変して勝つ』ということなんです。ですから大変な接戦になる可能性があるんですね。」

【アナウンサー・寺崎貴司さん】
 「はい、ありがとうございました。」

(映像協力 アジアプレス 特集取材 ジン・ネット)

終わり

*9/2 テレビ朝日「サンデープロジェクト」(2)北朝鮮の“大水害” 〜首脳会談延期の隠れた真相〜 aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/53862137.html

9/2 テレビ朝日「サンデープロジェクト」(1)北朝鮮の“大水害” 〜首脳会談延期の隠れた真相〜
( 2007.9.3,月 )
*9/2放送の「サンデープロジェクト」の特集を文字化しました。(放送は約30分間)続き(2)はもうしばらくお待ちください。

「8月末予定の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領の平壌訪問を延期するよう南側に伝えた」(8月18日朝鮮中央テレビ)8月の水害を理由に南北首脳会談の延期を通告した北朝鮮。しかしそれが真の理由なのか?水害が発生したまさに8月14日に取材カメラが中朝国境に入った。「向かい側の山が北朝鮮です。今日は8月14日・・・」(韓国人ジャーナリスト)カメラがとらえた北朝鮮の驚くべき光景。「『一心団結』と書かれている建物は、目立つ生産の姿は見られません」

盧武鉉大統領と与党が首脳会談を望んだ理由は12月の大統領選にあった。「彼らとしたらどんなことがあってもね、もう保守の政権というものを、これは阻まなきゃいけない・・」(ジャーナリスト)背景には、もし負ければ身が危うくなる、キングメーカーの大疑獄があった。金大中氏(キム・デジュン)に近かった財閥会長の怪死事件。「金大中氏はノーベル平和賞のため不法な金を出したのです」(ジャーナリスト)

南北首脳会談は何故延期されたのか?隠された真相に迫る―。


最新映像独占入手! 北朝鮮の“大水害” 〜首脳会談延期の隠れた真相〜

【アナウンサー・寺崎貴司さん】(スタジオにて)
 「特集は“南北首脳会談延期の真相”に迫ります。」

【アナウンサー・赤江珠緒さん】
 「解説は早稲田大学の重村教授です。重村さん、北朝鮮は先月の水害を理由に会談延期を伝えてきたんですが、どうなんでしょうか?」

【早稲田大学・重村知計教授】
 「はい。まぁ水害が最大の理由とは考えにくいですね。だから政治的な何らかの理由があったと。北朝鮮は政治的な理由なしにですね、決定を変更する国ではないんですね。」

【アナウンサー・寺崎貴司さん】
 「その水害があったとされる先月14日、中朝国境にカメラが入りました。」

独占入手! 北朝鮮大水害の真相

【ナレーター】
 先月15日、北朝鮮との軍事境界線に近い韓国の臨津江(イムジンガン)で5人の水死体が相次いで発見された。彼らは北朝鮮から流されて来たと見られた。その3日後・・・。

【韓国MBC】(8月18日)
 「南北首脳会談が10月に延期されました。」

【ナレーター】
 韓国政府は北朝鮮が水害のため首脳会談延期を提案したことを了承した。では、開催10日前に北朝鮮が突然延期を求めたのは本当に水害が理由なのか?

首脳会談延期の真相 @水害即刻公表〜 北朝鮮の“ありえない”対応

【朝鮮中央テレビ】(8月8日)
 「金総書記と盧大統領の合意に従い、来る8月28日から30日まで盧大統領が平壌を訪問することになりました。」

【ナレーター】
 先月8日、北朝鮮は首脳会談合意を報じた。その3日後、別のニュースを流す。

【朝鮮中央テレビ】(8月11日)
 「皆が奮い立ち、梅雨時の被害を徹底的に防ごう」

【ナレーター】
 北朝鮮のテレビは、突如水害への対策を訴え始めたのだ。実際に大雨が降り水害は起きたのか?気象予報士は言う。

【船木正人・気象予報士】
 「当時、朝鮮半島付近には前線が停滞していました。そこに向って非常に暖かく湿った空気が大量に流れ込んで、前線の活動が活発になりました。この影響で北朝鮮では記録的な大量の雨が降りました。」

【ナレーター】
 そして8月14日、北朝鮮のテレビは「集中豪雨による被害が発生した」と報じた。

【朝鮮中央テレビ】(8月14日)
 「1万6300町歩の農地が浸水し、2万2400世帯の住宅が破壊され、一部で人命被害まで出ました。」

【ナレーター】
 「被害は平壌及び北朝鮮の4つの道に渡る大規模なものである」と北朝鮮のテレビは伝えた。実は北朝鮮がこうした災害を即座に認めて被害規模を詳細に報道するのは極めて異例だ。去年も7月14日から集中豪雨で水害が起き、それを19日にテレビで映像は流したが、被害の詳細については伝えなかった。ようやく3週間後(8月7日)、朝鮮総連の機関紙“朝鮮新報”が死者549人(行方不明295人)などの数字を出したにすぎない。

【韓国NGO「JTS」法輪(ポンニョン)理事長】
 「洪水被害について、北朝鮮は政治的な理由で実際より小さい数字を発表しました。北朝鮮はミサイル発射後に準戦時体制になったため、外国の支援団などを受け入れて国情を外に知られたくなかったからです。」

【ナレーター】
 これまで北朝鮮は3年前(2004年4月25日)の列車爆発事故のように、外国で察知された時以外は災害を進んで公表しようとはしなかった。ところが今回、北朝鮮は水害発生と同時に国連機関に被害現場を視察させるという過去に例のない措置をとったという。

【リスリー世界食糧計画(WFP)報道官】(電話で)
 「WFPのスタッフは11の郡に向かい、即座に支援調査を行いました。農地の約10%が被害を受け収穫がかなり減るため、北朝鮮は食糧確保が困難となるでしょう。」

【ナレーター】
 これに対して17日、韓国政府はいち早く8億5千万円相当の緊急援助物資支援を決定した。すると翌日、北朝鮮は南北首脳会談の延期を伝えてきた。では、今回の首脳会談延期の理由は本当に水害なのか?水害が発生したとされたまさに同じ日にカメラが中朝国境に入っていた。そしてカメラは驚くべき光景をとらえていた。

独占!水害直後取材 「北朝鮮では大量餓死はもう起こらない」

【ナレーター】
 北朝鮮が「水害が発生した」と報じた先月14日のまさにその日、アジアプレスの記者が中朝国境でカメラを回していた。

【韓国人ジャーナリスト(アジアプレス)】VTR
 「向かい側の山が北朝鮮です。今日は8月14日・・・」

【ナレーター】
 ここは鴨緑江(おうりょくこう)に1987年中朝合弁で作られた太平湾水力発電所。流域面積はおよそ4万8千平方メートル。中国東北部で最大の貯水ダムだ。この地域では雨が降っている様子はない。しばらく(船を)進んで行くと、水浴びをする子どもたちとその後ろでバレーボールをする若者たちの姿が見えてきた。ここでは兵士たちが裸になって洗濯をしている。記者を観光客と思ったのか、カメラに対して手を振ってくる。北朝鮮国内で大規模水害が発生しているとは思えないほどのどかな光景だ。

【韓国人ジャーナリスト(アジアプレス)】VTR
 「カメラには今“警備哨所”が映っています。そこで旅人たちが今検問のように順番を待ってトラックや色んな交通手段を待っています。」

【ナレーター】
 さらに進むと・・・。

【韓国人ジャーナリスト(アジアプレス)】VTR
 「『一心団結』と書かれている建物は工場の一設備だそうですが、そこでは目立つ生産の姿は見られません。」

【ナレーター】
 数キロに渡って続く工場の廃墟。ここはかつて化学工場の工場団地で1万人ほどの労働者が働いていたというが、今はひっそりと静まり返っている。「敬愛する将軍様を決死擁護しよう」と書かれた看板がむなしい。

【韓国人ジャーナリスト(アジアプレス)】VTR
 「8月、トウモロコシや色んな作物が今、山々の段々畑に作られています。」

【ナレーター】
 山々は頂上付近まで一面耕され、トウモロコシが植えられている。この地域はやはり水害の被害を免れたようだ。では、水害の被害規模はどうなのか?石丸氏はリポートした韓国人ジャーナリストに電話した。

【アジアプレス・石丸次郎氏】
 「8月の中旬水害が発生以降にね、(中国に)出て来た人には会えましたか?」

【韓国人ジャーナリスト(アジアプレス)】
 「3人くらい最近出て来た人と会いました。両江道の恵山という所には平壌から来る列車があります。その列車が平壌まで運行が中止されたと。」

【アジアプレス・石丸次郎氏】
 「線路が切断されちゃったっていうことですね?」

【韓国人ジャーナリスト(アジアプレス)】
 「はい、切断されたことですね。元山で折り返し運転になっている状況だと。それは確実だというか、恵山で目撃した情報です。」

【ナレーター】
 先月27日、朝鮮中央通信は「水害の死者・行方不明者は少なくとも600人」と伝えた。また、北朝鮮の発表では「今回の水害で北朝鮮の農地の10%が被害を受けた」とされる。実はこれで大飢饉が再来する懸念も生じている。

 1994年と95年、北朝鮮では今回と同規模の水害が起こり、支援国ソ連も崩壊したため大飢饉が発生。200万人以上とも言われる餓死者を出した。韓国の農業専門家は「今回も餓死者が出る恐れがある」と言う。

【農村経済研究院・権泰進(クォン・テジン)博士】
 「北朝鮮が最低でも必要な食糧は年間520万トンです。国内生産と海外の支援などを合わせると現在推定500万トンになると推定され、20万トン以上足りません。餓死者が発生する可能性は十分あります。」

【ナレーター】
 本当に餓死者が出る危険はあるのだろうか?実はそれを真っ向から否定する事実がある。

 去年7月、北朝鮮で起きた水害に加えミサイル発射と核実験もあったため海外からの援助が激減。その結果、「100万トンの食糧が不足する」と国連機関などが予想していた。ところが北朝鮮で不思議な現象が起きていた。去年の水害直後の夏、1,100〜1,200ウォン(1キロ当たり)していたコメの値段が、もっとも食糧が不足するはずの今年3月に下がっているというのだ。

【北朝鮮の現役地方公務員】
 「3月に韓国のコメが大量に入ると(噂が流されると)コメは900ウォンに急落しました。」

【ナレーター】
 背景の一つは、2月の六ヵ国協議でこれが合意した後、「韓国が凍結していたコメ支援を再開する」という噂が広がった。では、それだけで国連機関の計算で不足しているはずのコメの値段が下がるのか?北朝鮮国内で取材するジャーナリスト・李ジュン氏は言う。

【北朝鮮のジャーナ