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2007年06月の日記

八重子と耕一郎 2つのアルバム(6)最終回です
( 2007.6.29,金 )
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*漫画アクション2006年4月18日号〜7月4日号で「母が拉致された時 僕はまだ1歳だった」(作画・構成/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。今回が最終回です。

【母が拉致された時 僕はまだ1歳だった より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)

*八重子と耕一郎 2つのアルバム(5) 
http://aoinomama13.seesaa.net/article/46634391.html

続き

第6回 母子で写った唯一の1枚

 八重子と耕一郎 ―親子でありながら、別々のアルバムの中でしか生きてこられなかった2人。

 その2人にとって唯一、一緒に写っているのがこの写真だ。

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*八重子さんと子供二人が一緒に写っている唯一の写真。(左から八重子、耕一郎の姉、抱っこされている赤ん坊の耕一郎)

 1977年8月。耕一郎が生まれてまだ半年。八重子は22歳の誕生日を目前にしていた。川口市内の実家に近いアパートで、結婚生活を営んでいた時代。八重子は、やさしい母のまなざしで、長女(左)と長男・耕一郎を見つめている。

 だが、飯塚繁雄と耕一郎がこの写真と出会ったのは、つい最近のことだった(2004年春)。

 写真の持ち主Nさんは繁雄にこう語っている。アパート2階の3世帯は仲良しでした。うちが引っ越すことになって開いてくれたお別れ会。その記念に撮った写真です。八重子さんの部屋で。八重子さんの手料理で。部屋はいつもきれいに片付いていて、若いけど、ちゃんと“母親をして”いましたと。

 そのアパートには繁雄も何度か足を運んだことがある。だが、この写真から間もなく、八重子自身もここを去った。母と子だけで生きていく決意を固めたからだ。

 幼い2人の子供を抱え、職を探し求め、池袋で働き始め、部屋も見つけ、その地で懸命に暮らし始めた・・・その矢先。八重子は拉致されてしまったのだ。この写真からほぼ1年後のことだった。

 その失踪から10年後、日本人“教育係”李恩恵の存在が浮上する。李恩恵の身元を捜索し続ける警察は、やがてNさんの元にまで現れた。自分のアルバムを見直したNさんは、この写真を剥がして、ひそかに持ち続けていたという。

 さらに10数年が過ぎた。2002年9月、小泉訪朝。その結果、妹は死んだと通告され、飯塚繁雄は遂に立ち上がった。「私が田口八重子の兄です」― 初めて世の中に向って名乗り出たのだ。家族会の一員として、妹の救出を訴え始めた。

 生活は一変した。大きな渦の中に放り込まれたような日々。将来ある耕一郎を「お前には、まだこの荷を背負わせたくない」と押し止め、繁雄だけが活動の表に立った。

 だが、耕一郎も気持ちを抑えきれなくなる。2004年2月。「母を1日も早く返してほしい」― 27歳の青年に成長していた田口八重子の長男は初めて、存在と名前を公にして母親奪還の戦列に加わったのだ。会見の様子をテレビで見たNさんはこれならもう写真を表に出しても迷惑をかけることはないと考えた。

 ・・・こうして耕一郎は、唯一の親子一緒のこの写真と出会ったのだ。

 それは、耕一郎にとって生涯最初の1枚でもあった。繁雄が撮った最初の1枚(第4回参照)より、さらに幼い時代の耕一郎だった。

 写真を見て繁雄は思った。耕一郎はきっと安心しただろう。自分はちゃんと母親の愛情に包まれて育ったのだと知ることができて。そしてまた、繁雄は思う。この写真のなかにある、普通の生活。平凡な親子の幸せ。それを取り戻してやりたい、取り戻さなければならないと。

 必ず取り戻さなければならない。八重子と耕一郎 ―別々だった2つのアルバムが交じり合い、この写真のように、2人が同じひとつのアルバムのなかで微笑む日を。微笑むことのできる、日本での日々を。

終わり

*小山さん、ありがとうございました。

*八重子と耕一郎 2つのアルバム(6)最終回です aoi blog
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千歳飴の願い
( 2007.6.28,木 )
 一昨年の秋、わが娘あおいは数え年で3歳になり、本来なら七五三を迎えるはずだった。私たち夫婦の中では一生0歳のままだが、あの子は確実に歳を重ねていく。亡くなった子にお祝いなんておかしいと思われるかもしれない。でも何かちょっとでもいいから祝いたかった。

 私たちは子どもの出生届を出していない。出す前に火葬するための手続きをしなければならなかったからだ。赤ちゃんを産んだのに戸籍上は母親ですらなく、世間では親として認められていない。だからわが子が一生懸命にお腹の中で生きていた存在していたということを誰かに認めてほしかった。

 ある日小さな千歳飴を買って何人かの方にも差し上げ、娘のために一緒に祝ってもらった。涙を浮かべてくれる人もいて、本当にうれしかった記憶がある。

 人を信じる、それが難しいのはよくわかっている。でもあの時の思いやりをやはり信じたいと願う自分の心を大切にしていきたい。

*千歳飴の願い aoi blog
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お花の贈り物
( 2007.6.27,水 )

 昨日ある方々よりステキなお花とプレゼントをいただきました。本当にありがとうございます。日々の疲れも癒され、心も元気になります。

 これからも人と人とのつながりを大切に頑張っていきたいと思います。皆さん、心より感謝申し上げます。

*お花の贈り物 aoi blog
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八重子と耕一郎 2つのアルバム(5)
( 2007.6.26,火 )
*漫画アクション2006年4月18日号〜7月4日号で「母が拉致された時 僕はまだ1歳だった」(作画・構成/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。(全6回)

【母が拉致された時 僕はまだ1歳だった より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)

*八重子と耕一郎 2つのアルバム(4)
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続き

第5回 大人になるまで守りきらなければ

 3人の子供の父親として、飯塚繁雄は懸命に働いていた。妻の栄子は末っ子が小学生になったのをキッカケに、昼間のパートに出た。少しでも家計を助けるためだ。

 そんな飯塚家に、突然、赤ん坊の耕一郎が加わった。1978年夏。忽然と姿を消した八重子が残していった子供だ。栄子は始めたばかりのパートを辞めて、もう一度、子育てにイチから取り組むことにした。新築したばかりの家のローンもあり、繁雄の肩には、生活の重さがいっそうのしかかってきた。

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*繁雄のヒザに耕一郎 飯塚家の正月の情景

 写真(上)は、耕一郎が3歳になった頃の飯塚家の正月の光景だ。繁雄のヒザの上で微笑む耕一郎と、3人の姉兄たち(男性は繁雄の同僚)。「この子はお父さんの妹の子だからね。このことは大きくなるまで絶対内緒だよ。今日からは、うちの子だからね」

 上の子たちには、耕一郎を引き取った日、1度だけ、こう説明した。以後、3人は本当の姉弟・兄弟以上に耕一郎と仲良く育ってくれた。

 この時期、繁雄は10年以上も1着の背広で通している。写真の中で着ているカーディガンも、ずいぶん長い間、着続けた。だが、一番苦労したのは、何といっても妻の栄子だ。背中に幼児を背負い、自転車の前や後ろに上の子供たちを乗せて駆けずり回る日々。苦労続きだったが、何があったかいちいち覚えていられないほど無我夢中の毎日だった。

 そんな生活でも、繁雄は、できるかぎり家族揃って旅をするよう心がけた。ほとんどは近場へのドライブだったが。写真(下)は、埼玉県内の長瀞を訪れたときのもの。会社の保養施設の一室だ。1985年4月。「耕ちゃん」はスクスク育ち、8歳になっていた。

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*旅行先室内 繁雄・栄子夫婦が頬を寄せ耕一郎と3人で

 当時通っていたのは、上尾市立平方小学校。4、5年の時期には週3回、近所のソロバン塾に通い1級の資格も取った。中学ではテニス部。よく勉強し、テストで何度も満点を取ってきては両親を喜ばせた。

 その中学時代、耕一郎が14歳になったばかりの春。日本の警察が「李恩恵は13年前に都内池袋から失踪した田口八重子さんと判明した」と公式に発表した。報道は匿名扱いだったが、飯塚一族に対するマスコミの取材攻勢が始まる。李恩恵の正体を探る興味本位な記事と、八重子の高校時代の顔写真が雑誌に氾濫した。

 それが自分の実の母親のことだなんて、耕一郎は露ほども知らない。繁雄の「耕一郎を守る闘い」には、今や新たな要素が加わった。単に「実子ではない」という秘密が他人の口から本人の耳にフイに入るのを防ぐだけでなく、事件の女・李恩恵の息子だという世間の好奇の目から、この子を隠しとおすという闘いだ。

 繁雄は世間に対して“李恩恵の兄”であることをいっさい隠し、深く沈黙した。耕一郎は、いま一番難しい年頃だ。真実を冷静に受けとめられる年齢になるまで、なんとしても耕一郎を守りきらなければ。20歳になったら、自分の口からきちんと全てを話そう。何もかも。そう心に刻み続けながら年月を重ねた。

 だが、耕一郎が20歳の誕生日を迎えた日、何ひとつ知らず平穏に暮らす息子の顔を見ると、繁雄はどうしても言いだすことができなかった。告白はズルズルと引き延ばされた。

*「第6回 母子で写った唯一の1枚」最終回に続く

*八重子と耕一郎 2つのアルバム(5) aoi blog
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八重子と耕一郎 2つのアルバム(4)
( 2007.6.25,月 )
*漫画アクション2006年4月18日号〜7月4日号で「母が拉致された時 僕はまだ1歳だった」(作画・構成/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。(全6回)

【母が拉致された時 僕はまだ1歳だった より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)

*八重子と耕一郎 2つのアルバム(3)
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第4回 3人の名を大きく書き込んだ次男としてのアルバム

 耕一郎のために、きちんとアルバムを作ってあげなければ・・・飯塚繁雄は、そう決心した。

 妹・八重子の子供、幼い耕一郎を自分の子供として育てることに決めた今、繁雄・栄子夫婦の次男としてのアルバムを、ちゃんと作ってあげなければならない。将来、耕一郎が出生に疑問を持たないように。

 繁雄は愛用のカメラを構え、しっかりとシャッターを切った。飯塚家での耕一郎、最初の1枚だ(写真)。秋が近い、ある日。居間で、カーペットの上をハイハイする耕一郎は、もう1歳半になっていた。

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*耕一郎、飯塚家での初めての写真(1歳)。

 ―1978年6月、突然、行方不明となった八重子(拉致だと分かるのは10数年後のことだ)。あとには幼い2人の子供が残された。2歳半の女の子と、1歳少しの耕一郎。しばらくは繁雄が2人を預かった。

 だが、いつまで待っても八重子の行方は知れぬまま。やがて、飯塚家では家族会議が開かれた。その結果、上の子は、八重子の姉が引き取ることになった。耕一郎は繁雄が育てることにした。

 繁雄には既に3人の子供がいる。9歳の長女、8歳の次女、小学校に上がったばかりの長男だ。

 しかし、繁雄は耕一郎を引き取ったときから決めていた。上の3人と分け隔てなく育てよう、自分の本当の子として育てようと。

 妻とも話し合った。2人の子として精一杯育てよう。成長した耕一郎が真実を知ったとき、「ああ、僕は本当の子供じゃなかったんだ。だから不幸だったんだ」と、ほんのわずかでも感じることのないように。

 そのためにも、飯塚家の子供としてのアルバムを作らなければならない。八重子が住んでいた部屋に、子供たちの写真は1枚も見当たらなかった。2人の子供を女手ひとつで育てていた八重子。生きることに必死で、写真を撮るゆとりなどきっとなかったのだろう。

 だからこそ、耕一郎が幼い今のうちから、飯塚家の次男としての歴史を、できるかぎり刻み込んであげなければならない。「なぜ僕だけ、生まれてすぐの写真がないの?」と、耕一郎に不思議がられないように。

 繁雄は新しいアルバム帳を買ってきて、表紙の裏側にこう記した。

 「生年月日 昭和52年2月17日 午後0:53」「体重3440g 身長51.5cm」

 八重子の荷物の中にあった母子手帳から、ひとつずつ書き移す。その下には、次のように書き込んだ。

 「父 飯塚繁雄 母 飯塚栄子」「子 飯塚耕一郎」

 3人の名を、ことさら大きな文字で記した。「僕は、この両親の子供なんだ」―アルバムを開くたびに耕一郎がそう感じてくれるように。

 繁雄はアルバムに、最後の1枚を貼りながら思った。これからも耕一郎の写真をたくさん撮ってやろう。このアルバムを、耕一郎と我々家族の写真で埋め尽くそう。耕一郎が、生い立ちの秘密に気づくことなく、真っ直ぐ育ってくれるように。

 そして、いつかこのアルバムを八重子に手渡したい。「ほら、お前の子供は、こんなに元気に、こんなに立派に育ったよ」と言いながら。

 飯塚繁雄・栄子夫婦の次男として飯塚耕一郎のアルバムは、こうしてその扉が開かれた。

*「第5回 大人になるまで守りきらなければ」に続く

*八重子と耕一郎 2つのアルバム(4) aoi blog
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6/24 有楽町街頭署名活動
2007.6.24,日

*写真はすべてあおいのパパの撮影です。ブルーリボンの幟が2004年の選挙の時と同じようにこの場所で応援してくれました。

 24日の日曜日に東京・有楽町マリオン前で家族会主催の街頭署名活動が行われ、あおいのパパがボランティア参加しました。雨の中、事務局長の増元照明さんご夫妻を始め、拉致被害者及び特定失踪者ご家族、救う会茨城・宮城・京都・三重の関係者、その他ボランティアスタッフの総勢20人以上が参加されたそうです。

 今回の署名活動については、20日に増元さんより直接参加要請の連絡がありましたが、急な事でしたし、家族会の発表もなかったので、サイトへの告知掲載等はしませんでした。ご了承ください。

 ボランティアスタッフは午後1時前に集合しました。しかしその時に同じ場所で川田龍平さんのグループが街頭活動をされていて、少し開始時間がずれ込んだそうです。川田さんの話をしばらく聞いた後、彼がパパの近くに来て握手を求めてきました。あとでその話を聞いて、私たちはそれぞれの持病の事を考えると彼の気持ちも他人事のようには思えませんでした。

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*署名をいただく増元さんご夫妻です。宮城の安藤さん、三重の方、そして稲川さんがいらっしゃいます。

 少し時間は過ぎましたが、皆さんは簡単な打ち合わせの後、画板に署名用紙をのせて、道路のガード下で街頭署名活動が始まりました。チラシは主催者側が用意したものと政府のパンフレットを配りました。(当日、個人のものが多少あったようです)雨が降ったり止んだりのあいにくの天候でしたが、皆さんが声を出して一生懸命に訴えると足を止めて署名をしてくださる方がたくさんいらっしゃったそうで、本当にありがたいことだとパパも感激したそうです。

 当日、マスコミ関係ではNHKの取材もありました。それから映像教育研究会代表の稲川和男さんがビデオカメラをまわしていました。いつも本当にお疲れさまです。

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*特定失踪者・鈴木賢さんのご家族の訴えです。

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*拉致被害者・田口八重子さんのお兄さんです。

 家族会側の事情があって署名活動が急だったことや、広く告知をしていなかったためか、この日に集まったボランティアの皆さんは顔見知りが多かったようです。

 また、ここで活動をするために茨城代表の松尾さんや宮城の安藤さん、京都の藤岡さんなど関係者が事前に裏方でも大変苦心をされたと聞きました。細かいことではチラシや画板・署名用紙など備品の用意、そして当日大きな混乱が起きないように色々な手配をされたりと、陰ながら事前に一生懸命根回しされていたそうです。見えるところだけがすべてではないと改めて感じました。

 午後3時に有楽町での署名活動は終わりました。片付けの後、スタッフはそれぞれに解散しました。(懇親会に参加された方もいたようです)有楽町で署名をしてくださった皆さん、本当にたくさんの心をありがとうございました。今回、あおいのママは参加しませんでしたが、またこのような機会があればできるだけ協力をしたいと思っております。ご参加の皆さん、雨の中2時間本当にお疲れさまでした。

*増元照明さんのホームページ
http://www.interq.or.jp/power/masumoto/

*増元さん、松尾さん、安藤さん、藤岡さん、ご心配と色々と気を使っていただき本当にありがとうございました。あおいのパパから聞いて感激しております。

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*増元さんの奥さんです。

*6/24 有楽町街頭署名活動 aoi blog
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八重子と耕一郎 2つのアルバム(3)
2007.6.23,土
*漫画アクション2006年4月18日号〜7月4日号で「母が拉致された時 僕はまだ1歳だった」(作画・構成/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。

【母が拉致された時 僕はまだ1歳だった より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)

*八重子と耕一郎 2つのアルバム(2)
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第3回 2人の「八重子」

 地元・川口(埼玉)の市立中学で八重子は、長身だったこともあってバレーボール部に所属していた。次いで、市立高校の商業科に進学。1971(昭和46)年のことだ。

 写真(右)は高校2年のときの八重子。3番目の兄・勝の結婚式に出席したときのものだ。親族の集合写真の中で、背伸びしたい年頃の八重子は、化粧をし、眉も剃っている。

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*結婚式の集合写真の八重子さん

 時代は「昭和元禄」と呼ばれ好況に沸く隆盛期。そんな社会の中で、高校生の八重子も喫茶店でバイトするなど青春を謳歌しだした。やがて、せっかく進んだ高校を2年の終わりに退学し、本格的に働き始める。

 この写真の時から15年後に起きた大韓航空機爆破テロ。事件後、世間の人々には、高校時代のこの顔が、「李恩恵=田口八重子」として広まった。マスコミに流出した写真のうち、行方不明時の年齢に最も近いものだったからだ。

 日本の警察が李恩恵の身元を最終的に確認するため、韓国で金賢姫に見せたのもこの写真だった。金賢姫は15人の女性の写真を1枚ずつ見せられたが、この写真が現れた瞬間、迷わず手に取り、「李恩恵先生」と懐かしそうに呼びかけたという。

 しかし、兄の飯塚繁雄にとって、この写真は「あまり八重子らしくない」ものだった。細い眉。睨んだような顔。繁雄がよく知っているふだんの八重子とは違っていた。

 繁雄は、八重子の失踪後しばらくしてから、1枚の写真を手帳にはさんで持ち歩くようになった。繁雄にとっては、それが「八重子らしい八重子」だった。失踪直前、22歳のときの写真だ。(左)

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*22歳の八重子さん。

 就職活動用に撮った写真だった。女手ひとつで幼い2人の子供を育てることを決意して、履歴書に貼るためにカメラの前に座った八重子。

 高校をやめたあと、20歳になるかならないかで結婚した八重子は、間もなく長女を出産。翌々年には長男・耕一郎も生まれた。だが、家庭をかえりみなくなった若い夫と別れる決心をして、自力で生きていく覚悟を固める。親代わりの繁雄夫婦にもそう伝えていた。負けず嫌いな八重子らしい選択だった。

 そんな時期に撮影したまま、八重子の姉の家に残されていた顔写真。その存在を知って、繁雄は、それを肌身離さず持ち歩くようになったのだ。原因不明のまま突然消えてしまった妹。探すための手がかりを、いつでも身につけていたかった。

 だが、91年に「李恩恵=田口八重子」と発表された後、マスコミの容赦ない取材攻勢を受けるようになってからは、この写真を世間の目から隠し通した。この写真こそ、繁雄にとって妹・八重子であり、世間の好奇の目から守り切らなければならない耕一郎の、母・八重子だった。

 八重子の長男・耕一郎を1歳で引き取り、自分の子供として育てた繁雄が、21歳になった耕一郎に、近所の寿司屋で全ての真実を告げた日、「耕一郎、これがお前の本当のお母さんだよ」と見せたのも、繁雄が常に手帳に入れていた、この22歳の八重子だった。初めて見る母。記憶のかけらさえない母。耕一郎はじっと見つめているだけだった。

 拉致直前、日本での最後の1枚。繁雄は今も変わらずこの写真を身につけて、救出を訴え続けている。

*「第4回 3人の名を大きく書き込んだ次男としてのアルバム」に続く

*八重子と耕一郎 2つのアルバム(3) aoi blog
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八重子と耕一郎 2つのアルバム(2)
( 2007.6.22,金 )
*漫画アクション2006年4月18日号〜7月4日号で「母が拉致された時 僕はまだ1歳だった」(作画・構成/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。

【母が拉致された時 僕はまだ1歳だった より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)

*八重子と耕一郎 2つのアルバム(1)
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第2回 引き裂かれた母と子

 飯塚繁雄は28歳で結婚した。

 1967(昭和42)年の秋。東京・北区で催された祝いの宴には、妹・八重子ももちろん加わった。

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*繁雄の結婚式の時のスナップ 繁雄と八重子

 写真(上)は、挙式した会館内での一場面。八重子はセーラー服姿だが、まだ12歳だ。

 ―この日から11年目、22歳で拉致され、会えないままの八重子。

 今となっては、繁雄にとって、兄と妹が顔を揃えた唯一の写真となってしまった。このときの八重子は、結婚式というものに始めて出席し、たくさんの親戚と会えた嬉しさで、少し、はしゃいでいた。

 この日の新婦・栄子が、のちに、八重子の残していった子供・耕一郎を「母親」として育てることになるなんて、結婚式に列席した誰一人、想像さえしなかった。

 結婚式の前年、飯塚家では父親が亡くなっている。

 母親のハナは長年、7人の子育てに追われていたが、夫の死後、50歳を過ぎて初めて働きに出た。一家を支えるためだ。自宅のあったさいたま・川口に、当時ちょうどオートレース場ができた。ハナは、そのなかにある食堂で働き始めたのだ。

 結婚し、自宅を出て社宅住まいとなった長男・繁雄。一方の末っ子・八重子も中学、高校へと進み、それぞれの生活の中で時間に追われていた。それでも、父親の死後、八重子は年の離れた繁雄を父親のように慕い続けていた。繁雄の妻となった栄子も「八重ちゃん、八重ちゃん」と呼んで義妹を可愛がった。

 繁雄・栄子夫婦は結婚後、3人の子に恵まれている(長女・次女・長男)。八重子にとっては」姪や甥だ。その子たちを八重子はよく可愛がった。中学生や高校生の八重子が、繁雄の子をだっこしたりおんぶしたりしている写真が何枚も残っている。

 下の写真も、そんななかの1枚だ。14歳の八重子と、繁雄の長女。それらの写真を眺めながら、繁雄は今さらながらに思う。「八重子は、子供好きだったんだなあ」と。

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*14歳の八重子が繁雄の子供を抱いた写真。

 ましてや、自分の幼い子供たち・・・。2歳半の長女と、1歳少しの長男・耕一郎。その2人を残したまま突然拉致されてしまった八重子の胸中を思うとき、繁雄はいつも決意を新たにする。

 「八重子と耕一郎・・・この母と子を絶対、会わせてあげなければ」と。

 北朝鮮に連れて来られた直後、八重子はお腹に残っていた妊娠線まで見せて「私には小さい子供がいる。日本に返して」と、泣きながら北の担当者に訴えたという。地村富貴恵さんが、北朝鮮で八重子から直接聞いた話として繁雄に伝えてくれた。

 引き裂かれた母と子―。

 ハナと八重子、この母と娘もまた拉致によって引き裂かれた。

 八重子の母ハナは、娘が突然、原因不明の失踪をしてからは、繁雄の顔を見るたび「八重子はどうしてるだろうか」と口にした。

 調理師免許も取り、オートレース場や企業の社員食堂で70歳まで働き通したハナ。晩年は脳卒中の後遺症で病院や施設での生活を続けていたが、92年、80歳で帰らぬ人となった。最後まで娘を案じ、娘に会えないまま。

 その死は、警察が「李恩恵の身元は埼玉県出身の田口八重子さんと判明」と発表した翌年のことだった。

*「第3回 2人の八重子」に続く

*八重子と耕一郎 2つのアルバム(2) aoi blog
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八重子と耕一郎 2つのアルバム(1)
( 2007.6.21,木 )
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*漫画アクション2006年4月18日号〜7月4日号で「母が拉致された時 僕はまだ1歳だった」(作画・構成/本そういち氏)に掲載された小山さんのコラムをテキストにしました。順次ご紹介致します。

*'06 9/3 テレビ朝日「スーパーJチャンネル」お母さんと言ってあげたい
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【母が拉致された時 僕はまだ1歳だった より】 取材・文:小山唯史(こやまただし)

第1回 飯塚繁雄「兄として、父として」

 飯塚繁雄(家族会副代表)は7人兄妹の一番上だ。末っ子の八重子が生まれたとき、繁雄は既に17歳になっていた。埼玉県内の自動車会社で働いて家計を助けながら、夜間高校にも通い始めていた。

 中学時代、3年の総合テストで学年2番になるほど成績優秀だった繁雄だが、経済事情から進学を断念して就職の道を選んでいた。

 写真は、八重子が5歳頃のもの。八重子は1955(昭和30)年の生まれだから、60年前後に撮影した貴重な1枚だ。まだカメラが一般に普及していなかった時代。カメラ好きの叔父(八重子の母ハナの弟)が、埼玉県川口市の飯塚家に佐渡から遊びに来たときに撮ったものだ。

 背景として写っているのは当時の自宅。粗末な壁はワラと泥がむきだしになっている。この家で、両親と子供、一家9人がひしめきあい、助け合いながら暮らしていた。

 末っ子だったからだろう、八重子は父親にとても可愛がられた。八重子も父親が大好きで、いつも、まつわりついていた。そんな娘を、父親は嬉しそうにだっこし、歩くときは必ず手をつないでいた。

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*父に甘えた末っ子の八重子(写真は5歳頃の八重子。自宅前

 父親は病弱だった。川崎の鉄鋼会社や川口の鋳物工場で職人として働いていたが、心臓や肺を痛め、やがて重労働には耐えられなくなった。それでも家族を養うために、自分にできそうな仕事を探しては職を転々としていた。よく喘息の発作を起こしていたことを繁雄は今でも鮮明に覚えている。

 八重子が10歳のとき、父親が他界した。最後の数年は、働きにも出られず家で過ごす毎日。幼い八重子にとって、父親と一緒にいられることは、かえって嬉しいことだったに違いない。その死を、八重子は他のどの兄姉よりも悲しんだ。

 日本に戻ってきた拉致被害者・地村富貴恵さんから、八重子について繁雄が聞いた話がある。北朝鮮の招待所で八重子と同居していたとき(拉致直後の1年余の間)のことだ。

 八重子は夜中に目を覚まし、突然「今、お父さんの霊が出てきた」と口にすることが、たびたびあったという。「お父さんが出てきて、こんなことを言った」と。突然の拉致。

 見知らぬ地。人生をねじ曲げられた異様で不安な日々― そんな生活が、幼いころ甘え、早く別れてしまった懐かしい父親の幻を、呼び寄せたのだろうか。八重子の、壊れてしまいそうな心に。

 そう考えると、繁雄は妹が不憫でならなくなる。

 大韓航空機爆破事件を起こした北朝鮮の女性工作員・金賢姫も、一時期同居した李恩恵つまり八重子について、手記でこう語っている。

 「恩恵は(誰のものとも分からぬ、土を盛っただけの道端の墓の前を)通りかかるたびに立ち止まって何分か黙祷した。タバコを一本、お墓の前に(線香代わりに)差し込んだりもした。両親(早くに死んだ父と、生きていれば高齢の母)を思い、そうするというのであった」

 父親の死後、八重子にとっては、一番年長の繁雄が父親代わりとなった。「あんちゃん、あんちゃん」・・・繁雄を慕った声が、今も耳の奥に甦る。1978年6月、八重子は22歳のとき北朝鮮に拉致された。幼い2人の子供を残したまま。

*「第2回 引き裂かれた母と子」に続く

*八重子と耕一郎 2つのアルバム(1) aoi blog
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6/20レイソルサポーター反省会?!
( 2007.6.20,水 )

 上の写真、見にくいかもしれませんが20日の午後10時20分頃、柏の日立台公園前で夜のお散歩中に撮影しました。スタジアムに行った事のある方はどこなのかわかると思います。交差点の交番前でこっそり?撮影しましたが、何しろこの日の試合はロスタイムに失点して負けたので、試合後サポーターが暴れてないかなぁと心配になりました。

 前にも日記で書いた事がありますが、我が家から試合があるとスタジアムの照明が見えたりサポーターの歓声がよく聞こえます。今シーズンはホームの日立台では負けなしなので試合に行こうかな〜って思いましたが、パパは仕事で私一人で行くのも悪く、NHKBS1で中継があったのでテレビ観戦をしました。窓からはレイソルサポーターの応援がテレビの音声と少しズレながら聞こえてきました。

 帰宅したパパとあーだこーだ言いながらの観戦。なかなか点が入らない中、終了前にレイソルの谷澤選手を代えた時、嫌な予感がありました。「ロスタイム4分もあるの?」って言った直後、鹿島アントラーズのマルキーニョス選手にゴールを奪われ、二人して絶句・・・。即チャンネルを変え、巨人戦に。ホント、巨人が勝ってて良かったワ。もう二人ともカッカしていたので・・・。

 少し時間をおいて(気を落ち着かせて?)スタジアムの方へ散歩に行きました。途中、うれしそうなアントラーズサポーターとすれ違いながら黙々と歩く私たち。NHKの中継車が走り去って行き、パトカー(覆面パトカー含む)が走る中、交差点に着きました。

 公園前にはサポーターがまだ大勢集まっていました。「あれって反省会かな?」って言いながら、たぶん知り合いもあの中にいるかもしれないけど、そのまま立ち去りました。

 帰宅すると友だちからの電話。東京ドームで巨人―ロッテ戦に行っていたそうです。友だちはロッテファンなので、負けて悔しい思いをして帰ったそうです。残念だったね〜。私たちは巨人勝って救われたけど、けど、好きなチームが負けたら悔しいよネっ!!

*柏レイソルvs鹿島アントラーズ 第16節試合結果
http://www.reysol.co.jp/cheer/results/2007/070620.html

*6/20レイソルサポーター反省会?! aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/45674552.html

6/10 TBS「報道特集」北朝鮮の秘宝 埋もれていた日本との接点
( 2007.6.18,月 )

*6/10TBS放送の「報道特集」の一部を文字化しました。放送は約25分間でした。(写真はテレビより撮影しましたので不鮮明です)

北朝鮮が売りに出した謎の“竹かご”。「70万ドル・・・」その価値は? そして何故売るのか?背後に浮かぶ民族の対立。「天下絶品です」。守り抜いたのは実は日本人。埋もれた過去が今明らかに―。

なぜ売るのか? 北朝鮮の歴史的「秘宝」

【司会者・田丸美寿々さん】(スタジオにて)
 「さて続いての特集なんですが、4月に放送しました北朝鮮の特集の中で、あの古い“竹かご”が登場したのを覚えてらっしゃいますでしょうか?

*'07 4/29 TBS「報道特集」潜入!北朝鮮軍事パレード
http://aoinomama13.seesaa.net/article/41245333.html

 で、大変由緒ありそうなその“かご”をですね、保存している北朝鮮の博物館がたまたま訪れた日本のカメラマンにそれを売ろうとした、という話なんですが、その“竹かご”ちょっと気になりましてさらに取材を進めました。そうしますと実は歴史的にも、そして美術品としても大変貴重な文化財だということがわかりました。しかも日本とも深いつながりがありました。そのように貴重な文化財を何故北朝鮮は売ろうとしているんでしょうか?」

北が売る謎の“竹かご” 価値は?

【ナレーター】
 平壌(ピョンヤン)の金日成広場に建つ朝鮮中央歴史博物館。撮影はここで行われた。装飾が施された蓋付きの竹かご。平壌市内の「楽浪(らくろう)」という場所で発掘されたという。博物館の副館長からの申し出に、撮影した片野田(かたのだ)カメラマンは「耳を疑った」と話す。

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「『これを売りたいんだけど、買ってくれる人を紹介してくれないか?』と。まぁ正直な話、何で僕に?っていうのはありましたけど・・・。」

【ナレーター】
 そもそも博物館を取材する予定はなかった。目的は軍事パレードの撮影。(4月25日)何故竹かごを撮影することになったのか?それはこんな奇妙な経緯だった―。

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】(VTR)
 「ずいぶん遠くから遮断しているわけですね。」

【ガイド】
 「そうです。」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「(パレードは)見えない?」

【ガイド】
 「見えないところまで遮断している・・・。」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「まずいな、それ。」

【ナレーター】
 軍事パレードの撮影は難航した。同行する現地のガイドが撮影ができないよう片野田カメラマンを連れ回したためだ。そんな中、連れて行かれた博物館であの竹かごを見ることになったのだ。

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「向こうの方が結構その、切羽詰ったというかですね、何かこう『とにかく見てください』という感じだったので、むげに断る雰囲気じゃなかったんですよね。」

【ナレーター】
 「映像を撮って日本に帰り、買ってくれる人を探して欲しい」、片野田カメラマンは言われるままに竹かごを撮影した。副館長はガイドを通してこう切り出している。

【ガイド】(VTR)
 「このチンカは―」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「チンカ?」

【ガイド】
 「しんか、しんか」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「真価?」

【ガイド】
 「本当の価格ね。実際の価値がわかる人はいくらかわかる。その人の意見を聞きたい。」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「それで売りたいと?」

【ガイド】
 「売りたい」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「もう一度要約すると、(竹かごは)いつ頃のものだとさっきおっしゃっていましたっけ?」

【ガイド】
 「紀元2世紀、中国の漢の時。」

竹かご02.jpg

【ナレーター】
 片野田カメラマンは、竹かごとともに一冊の分厚い本を言われるままに撮影している。

【記者】
 「これがその文献ですね?」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「そうです、そうです。」

【記者】
 「この文献は何だというような説明だったんですか?」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「『このかごに関して詳しく書いてあるものだ』という・・・」

【ナレーター】
 本の背表紙を撮影しているが、題名は字がかすれて読み取ることはできない。

【記者】
 「これは何と言うふうに発音されましたか?覚えていますか?」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「いやぁ覚えていませんねぇ。はっきり言って僕はちょっと怪しいなと思っていたんですね。だから適当に流していたんです、この時は。」

【ナレーター】
 「竹かごについて書かれている」という本の題名は漢字で5文字。最初の2文字は竹かごが出土したという地名「楽浪」のようだ。最後の文字は「塚」という文字の旧字体である。ページをめくると文章は大部分が日本語で、「日本の書物のようだった」という。

 「楽浪」で始まり「塚」で終わる漢字5文字の題名。私たちは「よく似た本が東京の古書店にある」という情報を得た。

【古書店店主】
 「どうぞご覧ください。」

【ナレーター】
 表表紙に印刷されたマークは、北朝鮮で撮影したあの本と同じだ。本の中にはあの竹かごの写真。これは片野田カメラマンが撮影した本と同じ本のようだ。読み取れなかった題名の2文字は彩りという文字の「彩(さい)」、次は箱という意味の古い字「篋(きょう)」であることがわかった。(「楽浪彩篋塚」)

【古書店店主】
 「遺跡の名前が“彩篋塚”(さいきょうづか)です。」

【ナレーター】
 竹かごの名称は「彩畫漆篋(さいがしっきょう)」、通称「彩篋(さいきょう)」と判明した。出土した古墳は、竹かご“彩篋”(さいきょう)から「彩篋塚(さいきょうづか)」と呼ばれている。(古墳は1931年に発掘)この本はその発掘記録だった。執筆は日本人の調査チーム「朝鮮古跡研究会」。“彩篋”(さいきょう)を掘り出したのは日本人だったのだ。

竹かごは世界的文化財だった

【埼玉大学考古学研究室・高久健二助教授】
 「この“彩篋”(さいきょう)は、発掘された当時からもう超一級として世界的に知られた遺物なんですね。」

【記者】
 「仮に日本で出土したら?」

【埼玉大学考古学研究室・高久健二助教授】
 「仮に(日本で)出土するとですね、そうですねぇ、まぁもう国宝クラスだと思うんですね。」

【ナレーター】
 考古学者で“彩篋塚”(さいきょうづか)研究の第一人者・高久健二氏は、「竹かご“彩篋”(さいきょう)の価値は考古学の分野に留まらない」と強調する。

【埼玉大学考古学研究室・高久健二助教授】
 「あそこまで非常に細かい描写で図像が描かれた手記というのは非常にめずらしいんですね。ですから、当時の色んな説話に基づく図像なんですけど、当時のまぁどういう説話が流行していたのかとか、思想面でも重要ですし、あるいは当時の風俗ですね、服装であるとかそういうものを知る上でも非常に重要な資料なんですね。」

【ナレーター】
 竹かご“彩篋”(さいきょう)に描かれている人物は全部で94体。すべて当時の中国で広く知られていた物語の登場人物だ。例えばこの向かい合う二人は「渠孝子(きょこうし)」という説話である。

竹かご04.jpg

「父親は老いて歯がすべて抜け落ちてしまった。そこで息子の渠(きょ)は毎日食べ物を細かく砕いて、さじで父に与えた。その甲斐あって、父親は100歳を越えるほどの長生きをした。」

 帰国した片野田カメラマンは、一週間後、再び北朝鮮に入った。「できればあの竹かごを再確認したい」そうは思っていたが、この日の先方の対応には驚いたという。

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「空港から直行したのが博物館でしたね。」

【記者】
 「連れて行かれたんですか?」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「まぁそうですね。だいたいその、ホテルに最初向って荷物を置いてから動き出すものなんですけども、荷物積んだままそのまま博物館に直行したんです。」

【ナレーター】
 博物館側は竹かご“彩篋”(さいきょう)の売却話を進めたかったのだろうか、片野田カメラマンは入国後すぐに副館長に呼ばれている。

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】(VTR)
 「こんにちは、どうも。希望の価格はどれくらいなんですか?」

【ガイド】
 「70万ドル」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「70万ドル?7000万円ちょっと・・・。」

【ガイド】
 「7000万円」

【ナレーター】
 強気の値段提示。そもそも博物館側が売ろうとしている竹かごが本当にあの“彩篋”(さいきょう)なのだろうか?確認するためには、より丁寧に撮影する必要がある。

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】(VTR)
 「その物(竹かご)はまた撮影することはできます?」

【ガイド】
 「今、担当者がいない・・・」

【副館長】
 「一度写したからもう必要ないだろ?」

【ガイド】
 「あの時写したのじゃ足りない?」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「まぁできたらね、もうちょっと細かく撮った方が。この間は時間がなかったじゃないですか。」

【ナレーター】
 粘り強く交渉した結果、博物館側は竹かご“彩篋”(さいきょう)を出してきた。しかし・・・。

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】(VTR)
 「これ(照明)だとちょっと厳しいなぁ・・・。光がほらここだけ強いんだよね・・・。」

【ナレーター】
 「この部屋の中ならば」と許可されたものの、陽の射さない暗い部屋で撮影ははかどらなかった。懐中電灯の光では竹かご“彩篋”(さいきょう)の色合いが出ないのだ。

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】(VTR)
「・・・いやぁ、やっぱちょっと暗いんだよねぇ・・・。」

【ナレーター】
 結局、副館長室に場所を変えて撮影することになった。厳しく取材を制限する北朝鮮ではめったにない対応だ。

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】(VTR)
 「ここの方が(明るくて)全然いいと思います。」

北の竹かごを検証 本物か?

【ナレーター】
 明るい部屋で撮影することに成功した。この映像を検証すれば、この竹かごがあの国宝級の文化財“彩篋”(さいきょう)の本物であるのか、もしくは模造品であるのかがわかるはずだ。

 片野田カメラマンが2回目に撮影した映像を「彩篋塚(さいきょうづか)」研究の第一人者・高久氏に検証してもらった。

【埼玉大学考古学研究室・高久健二助教授】
 「(発掘記録本「楽浪彩篋塚」の写真と見比べて)この辺ですよね、ちょうど。撮影した当時はキレイに残っていますが、(北朝鮮で撮影した竹かごは)崩れてしまっている・・・。」

【記者】
 「これは傷みが進んだということですか?」

【埼玉大学考古学研究室・高久健二助教授】
 「そうでしょうねぇ。いつの時点での傷みかというのはちょっとわからないですけれども・・・。」

【ナレーター】
 出土した当時の写真と見比べたが、竹を編んだ部分は傷みが激しく比較の対象にはならない。そこで高久氏は別の部分に着目した。

竹かご03.jpg

【埼玉大学考古学研究室・高久健二助教授】
 「この傷は当初からある傷ですね、これはもう。この写真に写っているちょうどこの傷ですよね。左から3番目の人物の顔に付いている。ちょうど同じ箇所ですよね。」

【ナレーター】
 人物像を忠実に再現できたとしても、偶然入ったひび割れを正確に再現することはほぼ不可能だという。

【博物館員】(VTR)
 「16(センチ)」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「16(センチ)、外側でいうと18〜19センチくらいだね。」

【ナレーター】
 片野田カメラマンは、竹かごの寸法も測っている。

【埼玉大学考古学研究室・高久健二助教授】
 「そうですね。ほぼ一致しますよね。」

【ナレーター】
 記録に残っている寸法(18センチ)とほぼ同じだ。高久氏は「かご全体のゆがみ具合も大事なポイント」だと指摘する。

【埼玉大学考古学研究室・高久健二助教授】
 「ここで折れているんですよね。ここでこう内側にグッと。ここの屈曲がここですよね。基本的なこの形のゆがみとかですね、大きな傷の部分とかピッタリ一致するんですね。“彩畫漆篋”(さいがしっきょう)=“彩篋”(さいきょう)に間違いないと思いますね。」

売却の隠れた理由とは

【ナレーター】
 撮影したのは間違いなく竹かご“彩篋”(さいきょう)の実物であることがわかった。では、何故北朝鮮はこれほど貴重な文化財を売ろうとしているのだろうか?

 取材を進める中で意外な事実がわかった。そもそも北朝鮮は周辺の国と歴史認識が異なっているのだ。

「楽浪国はピョンヤン一帯の古朝鮮の遺民たちによって建てられた国である」(北朝鮮・社会科学院「楽浪墓の研究」より)

 “彩篋”(さいきょう)などが出土した古墳群は、朝鮮族の国・楽浪国の遺跡だと言うのだ。

【記者】
 「“郡”という言葉はないんですね?」

【(ネットで調べた)記者】
 「はい、楽浪“国”ですね。」

【ナレーター】
 中国の漢が平壌(ピョンヤン)に楽浪郡を置いたことは考古学の通説になっている。大学入試センター試験の設問に登場するほどだ。

(日本史B)
「紀元前1世紀ごろの倭は100余の小国に分かれ、前漢が朝鮮半島に置いた[楽浪]郡に定期的に使者を派遣したという」(センター試験04年追試)

 実は北朝鮮、韓国と中国は、朝鮮半島北部の歴史認識をめぐって対立している。日本では「平壌にあった中国系の楽浪郡が西暦313年に高句麗という国に滅ぼされる」とだけ教えられている。これに対して中国は「楽浪郡はもちろん、高句麗も中国系の国である」と主張。韓国側が一時猛反発した経緯がある。

 北朝鮮はより民族的な歴史観を展開している。「高句麗は当然朝鮮民族の国であり、平壌にあったのは楽浪郡ではなく朝鮮民族の楽浪国だ」と主張しているのだ。

【山梨学院大学・宮塚利雄教授】
 「そういう朝鮮民族と漢民族の昔からのせめぎ合いがあるわけですね、東アジアの地域をめぐってのですね。そういうものを今回の“彩篋”(さいきょう)の問題は提起しているということですよね。」

【ナレーター】
 「北朝鮮にとって自分たちの歴史観に矛盾する“彩篋”(さいきょう)はなくてもいい存在」、宮塚氏はそう推論する。あの博物館副館長は竹かご“彩篋”(さいきょう)を売り出す理由についてこう話している。

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】(VTR)
 「でも、これは北朝鮮にとっても貴重な物じゃないですか?」

【副館長】
 「中国の漢の物なので、我々には意味はない。」

【ガイド】
 「朝鮮の物ではなく中国の物だから、これを保存していく意味がないと・・・。」

【報道写真家・片野田斉(かたのだ ひとし)氏】
 「はぁ・・・。」

竹かごを守った 日本人の涙

【ナレーター】
 「中国の物だから意味はない」―。しかし76年前に竹かご“彩篋”(さいきょう)を発見した日本人にとっては大きな意味を持っていた。“彩篋塚”(さいきょうづか)を発掘した小泉顕夫(こいずみ あきお)氏である。(1897〜1993)

【記者】
 「どうも初めまして」

【ナレーター】
 京都大学名誉教授の有光教一(ありみつ きょういち)氏、99歳。「朝鮮古跡研究会」の元メンバーで、生前の小泉氏を詳しく知る一人だ。

【高麗美術館研究所・有光教一所長】
 「“彩篋塚”(さいきょうづか)の構造に非常に特色があるんですが、それを小泉館長が博物館の構内に(“彩篋塚”と)まったく同じように作るんですよ。」

【ナレーター】
 小泉氏の自叙伝には“彩篋塚”(さいきょうづか)から木組を取り出し、博物館で忠実に再現した様子が書かれている。

【記者】
 「“彩篋”(さいきょう)に間違いないですか?」(写真を見せる)

【高麗美術館研究所・有光教一所長】
 「間違いないですよ、これは。この写真で見ると。こういう物はイミテーションはできませんよ、なかなか。これは天下絶品ですわ。」

【ナレーター】
 有光氏は「朝鮮半島で古墳の発掘をする研究者には守るべき大原則があった」と話す。

【高麗美術館研究所・有光教一所長】
 「現地に残して置くと、出土品は。そういう建て前だったんですよ。」

【ナレーター】
 しかし戦争と終戦後の混乱の中で、文化財を現地に残すことは困難を極めた。小泉氏は竹かご“彩篋”(さいきょう)を守るため、ある隠密行動を決心する―。

 竹かご“彩篋”(さいきょう)が危ない。小泉氏は当時の様子をこう記している。

「日に日に増すソ連兵とその暴行略奪は、日本人だけでなく朝鮮人にまで及ぶ有様だった。こうして深夜の地下作業が始まった。“彩篋塚”(さいきょうづか)の重要遺品などは、地下室の奥に箱入りのまま積み上げて、その前にレンガ壁を作って密閉。地下室の壁と同色の塗装をして、例え進入されても奥に別室があることがわからないように作り上げた。」(小泉顕夫著「朝鮮古代遺跡の遍歴」より)

【ナレーター】
 日本に戻った小泉氏から考古学の教えを受けた近江昌司氏はこんな話を聞いている。小泉氏が朝鮮半島を脱出する際、持ち帰ろうとした資料のフィルムの話だ。

【天理大学・近江昌司名誉教授】
 「捕まって荷物の検査をされて、もし写真のフィルムなどが入ってたということになると、どんな目に遭うかもわからない。まぁそれでもどうしても持って帰りたい、というので持って帰られたんです。」

【ナレーター】
 この時のことも自叙伝に詳しい。

「ソ連兵の目をかすめての逃避行であった。ある場所で、家内や子どもたちがあんまり心配するので、最後に残った“彩篋塚”(さいきょうづか)の発掘調査などを収録した小型映画2巻も川に投げ込んでしまった。この時は思わず涙が落ちた。これで30年に渡る朝鮮での研究の記録がすっかり消え失せてしまったのである。」(小泉顕夫著「朝鮮古代遺跡の遍歴」より)

 家族と共に無事故郷の奈良県に辿り着いた小泉氏。資料はすべて失ったが、自叙伝のあとがきにこう綴っている。

「私は最後の日まで、朝鮮の文化財を守り続けたつもりでいる。」

 守り抜いた竹かご“彩篋”(さいきょう)が今、売りに出されている。もしこのことを小泉氏が聞いたら何と言うだろうか・・・。

【天理大学・近江昌司名誉教授】
 「奈良県の人ですから『なんちゅうことをするねん!』っておっしゃるんじゃないかなぁ・・・。」

【高麗美術館研究所・有光教一所長】
 「小泉さん、少し早く亡くなり過ぎたと私は思っていたけど、こんな話を聞くぐらいなら良かったかもしれんねぇ。こんな事知らずに亡くなったから・・・。」

秘宝『彩篋(さいきょう)』守った日本人

【司会者・田丸美寿々さん】(スタジオにて)
 「歴史的な竹かごは、もとは日本人が見つけた物だったんですねぇ。竹かごが見つかりました“彩篋塚”(さいきょうづか)というのは、今の平壌市内の南部にありまして、かなり位の高い人のお墓だって言うんです。時期は紀元2世紀、日本で言えば弥生時代なんですが、あの時代にもうあれだけ精巧な物ができていたんですね。

 で、発掘は1931年、当時の朝鮮総督府がこのように立派な図録を残しているですね。中にはこうした物や発掘した時の様子、その写真なども残っているんですね。

 ちなみに『発掘した墳墓と出土品というのは、同じ場所にあるべき』というのが考古学者の間では常識と言いますか、最低限のマナーなんだそうですが、当時、小泉さんたちも出土したのと同じ場所に大事に保存をしてきたということです。まぁそれが76年経って今、北朝鮮は軽い気持ちでたまたま訪れた民間人にそれを売ろうとしているというのは、何ともやるせない気持ちにさせられます。

 朝鮮半島の歴史を物語る大事なこの文化財、ぜひ北朝鮮自らの力で守り続けてほしいものだと思います。」

終わり

(撮影 片野田斉さん)


*'07 6/10 TBS「報道特集」北朝鮮の秘宝 埋もれていた日本との接点 aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/45388875.html

オリオンを見ながら
2007.6.16,土
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*闇夜に咲く向日葵。たくさん元気をもらいました。

 昨年の秋から冬にかけて、あおいのママとパパは「しおかぜ」チラシのポスティングを行いました。ちょうどその頃、健康のためにウォーキングをしていて、閑静な住宅街を通るたびポストが目に入り、「もしかしたら私たちにもできるかもしれない」と思い、特定失踪者問題調査会に相談をしました。そして快く承諾していただき、すぐにチラシを用意してくださって私たちはポスティングを開始しました。

 雨の日や用事のある日以外は、二人で無理なく1時間くらいかけて100〜200部を配りました。一軒家・集合住宅で“チラシお断り”の表示のないお宅のポストに入れていきます。“関係者以外立ち入り禁止”のマンションは避けながら、調査会に迷惑がかからないよう慎重に行いました。また、昨年秋の古川了子さんの裁判(11/1)の後、ポスティングのことをジャーナリストの小山唯史さんに話しましたところ、「町内会の役員のお宅などに入れると効果があるかもしれないですよ」とアドバイスをいただきました。ありがとうございました。

 鈴虫の鳴く季節が終わると、空気の澄んだ凍えるような寒い冬でした。チラシを持つ手は手袋をしていては配れません。冷たくなるけど、チラシが徐々に減っていく、そんな毎日が楽しかったです。近所でも普段なら通ることもない道を歩きまわり、小さな新しい発見が心をウキウキさせてもくれました。でも夜の闇の中では本当に怪しい二人だったかもしれませんね。

 ポスティングをしても結局目に見える効果もなく、大切なチラシが無駄になってしまったのかもしれません。ただの自己満足になってしまうのではないだろうかとずいぶん悩みました。

 毎夜、星の降るような空を見ながら行いました。冬の星座をこんなにじっくりと見たのは生まれて初めてだったかもしれません。寒いのに空も空気も澄んでいて、月も明るく星もキラキラ輝いて見えました。「あれはオリオン座だね」とパパに教えてもらったけど、私は「ああ、そうだっけ?」。「あれがカシオペア、あれは北斗七星だよ!」と何度も説明してくれました。そのおかげで子供の頃から星座を見るのが苦手だった私でもよくわかるようになりました。特にオリオン座はわかりやすいので、毎日オリオンを見て配るのが当たり前になりました。雲って見えない日はとても寂しく感じたりもしました。

 「自分たちにできることを、何か応援できることを」、そんな気持ちで私たちはポスティングを始めました。誰に何を言われたとしてもいい。あの天のオリオンたちが見ていてくれる、ご家族や支援されている皆さんの心をいつも応援してくれている、そう信じたいと思います。

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*写真は仕事が終わった後、帰宅してポスティングを頑張ってくれたあおいのパパです。ありがとう。(^^)チラシはすべて配布することができました。調査会の皆さん、お手数をかけてしまいましたが感謝申し上げます。

*「しおかぜ」チラシのポスティング
http://aoinomama13.seesaa.net/article/27057848.html

*オリオンを見ながら aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/45228896.html

1/14 神奈川県民集会 パネルディスカッション「よど号グループと拉致」(2)高沢晧司さん
( 2007.6.15,金 )

*写真は福留貴美子さんの母・信子さん(故)が娘さんの生存を信じ、帰国したら娘・孫娘等と共に暮らすつもりで用意していた家です。(現在は空き家)今年4月28日、よど号グループに真相を究明する会が高知で撮影しました。

*講演要旨レポートです。聞き取りに間違いやカン違いの可能性もございます。どうぞご了承ください。(主催者よりレポート掲載の許可をいただいております)

*'07 1/14 神奈川県民集会
パネルディスカッション「よど号グループと拉致」(1)三浦小太郎さん

http://aoinomama13.seesaa.net/article/44885986.html

続き

【司会・川添友幸さん】
 次は高沢晧司さんにおうかがいしたいと思います。高沢さんに関して私自身やはり“宿命”を98年に読みまして、当時、もう10年前になるんですが、そちらの方にも写真がありますが、福留貴美子さんとか見ましてですね、こんなかわいそうな人もいるんだなぁと思って、10年後まさか自分が救援活動をするとは思わなかったんですが。

 その高沢さんにちょっとおうかがいしたいと思ったのは、北朝鮮が4人(有本恵子さん・石岡亨さん・松木薫さん・福留貴美子さん)の「よど号グループによる拉致被害者は死亡した」というようなことを実際にも言っておりますが、例えば松木さんに関しては遺骨まで出してきております。その辺の、もちろん偽遺骨と政府は鑑定していますが、その4人が亡くなったということに関して高沢さんはどうお考えになられておられるかということと、そのよど号のメンバーと95年ぐらいまで高沢さんはお付き合いがあった、という点がありますので、メンバーから拉致被害者のことを何か聞いている部分があればという話。

 それともう1点。先ほどの野村旗守さんの話ともちょっと関連してくるんですが、旧社会党が拉致にからめたんではないか、というお話が出ておりますので、今私の言ったその意見に関してわかる範囲で教えていただければ幸いです。

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*写真はあおいのママの撮影です。

【高沢晧司さん・ジャーナリスト】
 1995年春にリーダーの田宮高麿が死ぬまで、田宮とちょっと僕は拉致被害者のことで、っていうのはつまりよど号ですけども、よど号が向こう(北朝鮮)に連れて行った人間を日本に「返す」「返さない」っていうことでだいぶ議論をしていたんですね。それで、その時に田宮は「どんなことがあっても必ず返すから」っていうふうな約束をしたんですよ。それで要するに石岡さんと松木さんに関しては「必ず返すからそのように家族に伝えてくれ」っていうふうに名言したんですよ。で、「家族と会ってくれ」っていうふうに。

 そう言ってすぐに田宮がその年の11月かなんかに死んだ。それで僕はその後、石岡さんの所に行って、松木さんの所に行こうとしたんですが、ちょっと松木さんの方は色々な事情があって直接はすぐには行けなかったんですが。まぁそういうことがあって、それから家族とお会いするようになったんですけども。

 だからその時点(1995年)までは、少なくとも北朝鮮が言っている死亡発表はウソで拉致被害者は生きていたんですね。田宮は少なくともそのことを知っていた。「必ず返すから」って言っていた。

【司会・川添友幸さん】
 ここでちょっと注釈なんですが、北朝鮮は「1988年に有本さんと石岡さんは石炭ストーブの一酸化炭素中毒で死んだ」ってなことを言っているんですね。ですからその7年後、高沢さんが田宮に会ったのは95年ですから、やはり北朝鮮が言っていることはウソであるとわかります。

 それで今、よど号グループは全面的に「3人(有本さん・石岡さん・松木さん)に関しては知らない」と言っています。ですけど高沢さんの今の話ですと、もちろん田宮以外のメンバーが石岡さんや松木さんたちのことを知っていたと思われますから、今彼らが言っていることっていうのは「ウソである」と、これは明確だと思います。

【高沢晧司さん・ジャーナリスト】
 それで福留さんの場合も、彼らは新聞発表した段階ですぐにもう認めるんですからね、8年前から知っていたっていうことを。だから明らかにウソをついていた。そういうことを平気でやるんですよ。

 それともう一つ、今川添さんの方から話しがあった、さっきからパネラーの方からも話が出ています、旧社会党の関与っていうことでは、その点が一番非常に明確に出ているのが福留さんの問題なんです。で、福留さんの問題が何故今まで表に出なかったかということは、非常にその辺の矛盾が一番集約されてそこに表現されているんですよ。

 福留さんの問題が何で今まで表に出なかったかということは、単純な拉致じゃないんですね、あれはね。おおよそ非常に複雑怪奇な問題で、旧社会党の、ここで名前を出すこともできるんですが、名前を出しても大抵皆さんご存知ないからあえて出しませんけども、高知県出身の選出の国会議員やっていた、旧社会党の議員の秘書をやっていた連中が、一生懸命そのおばあちゃん(福留貴美子さんの母・信子さん)の所にやって来て妨害工作をやるんですよ。

 それとその男の非常に仲が良かったある病院の院長っていうのが、やっぱり非常に妨害工作をやる。彼はテレビに出演したりして非常に高知では文化人なわけですね。そういう連中が寄ってたかって隠すんですよ。それで福留さんの問題は表に出なかったわけです。

 それともう一つその井上泉の、あっ、つい言ってしまった。(会場から笑い)まぁいいですよ。その国会議員と仲が良かったその病院のですね、理事長っていうのが、結構大きな病院なんだけども、もっとはっきり言っちゃうと新左翼の党派っていうのがあって、当時の社会党の青年組織のローター部長なんですよ。それが関わっているわけなんです。だからもう非常に複雑な構図が出てきて、見事にはまってくるわけです。

*もう一つの拉致 福留事件の30年 〜「よど号犯」の妻になった24歳〜('07 1/15 AERAより)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/34173424.html
*拉致問題で新事実 福留さんに北との接点 ('07 3/12 AERAより)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/36333834.html

【司会・川添友幸さん】
 高沢さんが指摘されました福留さんの件に関しては、今日の資料の中にだいたい詳細が書いてあります。あと、今月発売の「正論」の2月号に特定失踪者問題調査会理事の岡田和典さんがですね、今のその、もちろんY氏とかI氏というかたちになっているんですけど、今、高沢さんが言われた方のことを書いています。

 福留さんの件は昨年の11月に高知県警の方に告訴を含む告発を行いまして、私も高知県警の方へ同行しましてですね、地元でやっと動き始めた状況です。

 ただこの方もご家族がですね、今高沢先生がおっしゃったおばあちゃんと言われたお母さんがもう亡くなられてしまって、誰もいらっしゃらないんですね。しいて言えば(貴美子さんの)娘さんが2人いるんですが、よど号のメンバーたちと共同生活みたいな状況になっていまして、非常にこれもゆゆしき問題なんですが。何とかしてあげなくてはいけないなと思っているような状況です。

 あの福留さんの件というのは、高沢さんがおっしゃったようにちょっと複雑怪奇な事件だということで、ご興味ある方はぜひ今月号の「正論」をお読みになっていただければ、詳細が出ていると思います。

*福留貴美子さん拉致事件・告発状 ダントンさんのブログより
http://kaese.at.webry.info/200611/article_5.html
*'07 4/28 高知県民集会レポート
http://aoinomama13.seesaa.net/article/42211915.html

続く

*'07 1/14 神奈川県民集会 パネルディスカッション「よど号グループと拉致」(2)高沢晧司さん aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/44941300.html

1/14 神奈川県民集会 パネルディスカッション「よど号グループと拉致」(1)三浦小太郎さん
( 2007.6.14,木 )

*写真はすべてあおいのママの撮影です。

*1/14 神奈川県民集会 三浦小太郎さん(人権活動家)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/41663264.html

*パネルディスカッションの要旨レポートです。一部聞き取りが難しい状態ですので、これからのレポートはできる範囲で作成致します。また、当日のお話の順番通りにはできないかもしれません。それから聞き取りに間違いやカン違いの可能性もございます。どうぞご了承ください。

【司会・川添友幸さん】
 これからパネルディスカッション「よど号グループと拉致」を始めたいと思います。先ほど講演されました6人の方とですね、“宿命”という本でよど号グループの拉致を暴かれて、福留貴美子さんの拉致問題を発掘されたジャーナリストの高沢晧司さんに今日特別に来ていただきましたので、高沢さんにも加わってもらいながらパネルディスカッションを進めていきたいと思っております。やり方として、私の方から講演者の方にちょっとお話を聞いて答えていただく、というような感じを考えておりますのでよろしくお願い致します。

 まず、三浦さんにおうかがいしたいと思います。よど号の拉致とは少し離れるかもしれないんですが、拉致被害者の救援のためにですね、やはりその色々な方法が必要ではないかと。先ほど萩原遼さんの話の中にも北朝鮮難民の救援の必要性という話がありました。北朝鮮難民の救援の必要性と、昨年6月に成立しました北朝鮮人権法に対して一部まだ反対する動きがあるという話を、特に保守系の反対があるとちょっとうかがいましたので、その辺をわかる範囲でお答えいただければと思いますので、よろしくお願い致します。

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【三浦小太郎さん・人権活動家】
 まずですね、北朝鮮難民に関して非常に間違った誤解がある、という気がしますのでちょっと訂正しておきます。「北朝鮮が崩壊したら大量の難民が日本に押し寄せて来るんじゃないか」とそういうふうにまずお考えの方いらっしゃると思うんですが、その可能性は非常に低いです。まず船がないですよ。

 そして、じゃあ仮に来たとしましょう、仮にですね、北朝鮮から大量の難民が押し寄せる事態があったとして、その人たちは北朝鮮の秩序が安定化したら帰って行く人たちです。また帰る難民っていうのはそうなんです。来て、秩序が安定化したら帰って行く。基本的に北朝鮮で生まれた人が、お父さんもお母さんもそのまたお父さんもお母さんも全部北朝鮮で生まれた方々が日本に大量に来る、ということは非常に考えにくい。基本的に韓国に行きます。あるいは中国に逃れます。

 それより「何十万の難民が日本に押し寄せる」というのは私はですね、北朝鮮の崩壊を意図的なことかわかりませんけど、「崩壊したら恐ろしいぞ」という、どうもデマじゃないか?とすら私は思っています。

 ただ仮に何十万の人が日本に来るなんていう事態があったらですね、その人たちは一時的に収容して、そして北朝鮮が安定化したら、まぁ国連のPKOとか色々と入らざるを得ないでしょう。戻っていく人たちの問題です。これを日本が受け入れるべきではないんです。これはまず第1点ですね。

 第2点、今日本に何人の方が来ているか私わかりませんけれども、百数十人は来ていると思われます。私が付き合っている方々は20人から30人の間ですが。この方々は何故日本に来ているかというと、基本的に北朝鮮帰国事業の時に日本から帰った、親に連れられて帰った人がほとんどですけれども、当時10歳だった、17歳だった、それが親に手を引かれて帰った人が40年ぶりに北を脱出して、在日コリアンとして日本政府が受け入れているということが今起きています。

 あとは日本人妻ですね。日本人妻っていう名前、読み方も大変失礼ながら若い方、私も若いんですけど、若い方にはピンとこないかもしれませんが、要するに朝鮮人の方と結婚して帰国事業で向こうに帰った日本人女性、こういう方々が数名日本に来ております。そしてその方々のお子さんたちも日本に来ています。

 ですから、北朝鮮で純粋に何代も前からいた難民が日本に来ているという事実ではないんです。

 そしてここからはですね、私もあまり奇麗事ばかり言ってもいけませんから正直に申しますけれども、やはり難民とか移民とかはあまり受け入れたくないというのはこれは素直な感情なんです。これは「差別だ」とか言ったら話は終わってしまうんです。世界のどの国だって難民を喜んで入れている国なんかないんです。「できれば受け入れないで済ませたい」それは世界のどの先進国に行ったって同じです。そして今世界はそっちに動いているのも事実ですね。

 しかし、私たちはここでですね、もう少し、もう一つ考えなくちゃいけないことがある。世界が教えたことは、やっぱりあの9.11テロ、その他の色んな事件を見るとですね、両方の国でものすごい独裁国家・テロ国家ができた時に、それを民主化しなければ、その国を政治を好きに放っておいたら、自分たちの国にその国がいつか攻撃を仕掛けて来るかもしれない。このことはやはり安全保障の面からも考えなくてはいけない。

 ですから私たちは北朝鮮を民主化していく。そしてその過程で、今現実に中国に何万という人が逃げて来ている、その人たちの生まれ故郷が日本であったらですね、生まれ故郷が北朝鮮の人はそれは韓国かもしれないけれども、生まれ故郷が日本で、帰国事業で、しかも朝鮮総連の宣伝に騙されて帰った人たちであったら、その人たちに関しては迎え入れようという気持ちをこの国が持つことはですね、日本の国際的な名誉にも決して傷つけることにはならない、むしろ高めることになります。

 ただここですごく大事なことがあるんです。この時に必ず絶対に起こしてはいけないのが逆差別の問題です。もちろん、この人たちは生活の基盤も何もないんですからある程度の保護は必要なんですけど、この人たちを受け入れる過程でできるだけ自立する覚悟を持ってもらう。70歳の日本人妻の人に働けとか言っているんじゃないですよ、その人が40歳以下とかそういう年齢だったら。日本人は働いているんですから。日本人で70歳でも働いている人もいますけどね。この国に来る以上は日本語を覚えてもらう、仕事をしてもらう、その仕事に就くための手助けはある程度やるべきだとは思うんですけど、そういうきちんとした教育をして彼らを受け入れていくという、そういうことは私は北を倒すためのリスクとしても考えなくちゃいけないと思います。

 さっき萩原さんもおっしゃった「有益な情報が脱北者を通じてもたらされる」ということは私は可能性としては十分あると思いますし、ただこれは脱北者ももちろんそうなんですが、ちょっと話ずれて悪いんですけど、外務省がもっとお金を使って情報を集めないと。北の中の幹部から。本当に今の北朝鮮ね、お金があったら相当のことができます。情報を引き出さないと。それと脱北者の情報を整合する、そして色んなものをあぶりだしていく。こういう作業がやはりちょっと外務省足りない、知らないところでやっているのかもしれませんけどもね、私は足りないんじゃないかなと思います。

 そして最後にちょっとだけエピソード言いますけどね、この「脱北帰国者」、こういう言葉を使いますけども、1960年代に10代で向こうに行った人ですが、民族的にはね、それはコリアンかもしれない。しかし彼らはものすごくこの日本を愛しています。どうしてかと。朝鮮半島でやっぱりひどい目に遭ったんですよ。「日本から来た」ということでものすごい差別があったわけです。もちろんそれだけとは言いません。それだけとは言いませんが基本的にそうです。

 そしてこれは時々集会でエピソードで言っていいかどうか迷いながらいつも言ってしまうんですけども、この前その脱北者の方で60歳くらいのおばあさんの家に用があって行ったらですね、テレビを見ていて、そこで裁判で日の丸を教職員で反対した方が、それはそれで思想の自由ですけど無罪になったということで、こういう言い方をする人なんですが、「何でここは日本なのに日本の国旗に反対するのか!こいつらおかしいのと違うか!!」と言うので、「いや、まぁ、それにも色々考えはあるんです」と、こっちが納得してどうするんだ?ですけどね。

 つまり彼らの中には確かに私が付き合っていてですね、色んなトラブルも本音言うと起きているんです。だけど彼らの中には、60年代にあった日本のいい部分というのは、もしかしたら僕のような世代より残している人がいます。これは彼らの名誉のために言っておきたいのです。

 彼らはものすごく日本国籍を欲しがっています。僕はそれは法律がやっぱり3年経たないともらえないと、小国的なことはできない、または生活保護の状態ではもらえないんだと、だから働いてくれと、こういう言い方をしますが。

 彼らは基本的にこの国が迎え入れて、そしてこの国が助けていける、私はそういう人たちだと信じております。これはこのテーマだけで非常に重要な問題になってしまうので長くはしゃべれないんですけども、またいつか別の機会があればですね、文章でも発表したいと思いますし、皆さまにも個人的に聞いていただければできるだけ疑問にはお答えしたいと思います。(大拍手)

(2)に続く

*'07 1/14 神奈川県民集会 パネルディスカッション「よど号グループと拉致」(1)三浦小太郎さん aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/44885986.html

3/31 第16回藤沢市民集会 特定失踪者ご家族の訴え(大澤茂樹さん 高野美幸さん 寺島さん)
( 2007.6.13,水 )

*写真はすべてあおいのママの撮影です。(左から大澤茂樹さん、高野美幸さん・寺島さんご夫妻)

*講演要旨レポートです。聞き取りに間違いやカン違いの可能性もございます。どうぞご了承ください。(主催者より掲載許可を得ております)

【特定失踪者 大澤孝司さんの兄・大澤茂樹さん】
 皆さん、こんにちは。ただ今ご紹介にあずかりました、私、今から33年前の2月24日に新潟県の佐渡島で北朝鮮国によって拉致された疑いが濃厚な特定失踪者大澤孝司の兄でございます。

(調査会公開リストより)
*特定失踪者 大澤孝司さん 昭和49(1974)年2月24日失踪
http://chosa-kai.jp/cgi-bin/address/list3.cgi?word3=69&mode=search3

 本日このセミナーに、昭和51年7月30日に東京都の神津島で電気通信大学の旅行中に忽然と拉致された疑いが濃厚な高野清文さんのご家族と、それからもうひと方、昭和54年の8月10日、某銀行の親睦会で鎌倉の花火大会に参加し、その後同僚と別れ、帰宅途中に忽然と北朝鮮国によって拉致された疑いが濃厚な寺島佐津子さんのお父さんとお母さんも本日参加させていただいておりますので、簡単に自己紹介をさせていただきます。では高野さん、どうぞよろしくお願いします。

東京へ、帰せ!.jpg

*あおいのパパが都内地下鉄でポスターを見かけて撮影したものです。

【特定失踪者 高野清文さんの妹・高野美幸さん】
 今ご紹介にあずかりました、兄は調布市の電気通信大学の寮の旅行で、神津島から行方不明になりました。出身が長野県になります。そして今度東京都で、都内の関係の特定失踪者のポスターを作成していただきまして、会場内に「東京へ、帰せ!」のポスターを貼り出しています。そちらの方にも私の兄の名前が載っており、紹介されております。

(調査会公開リストより)
*特定失踪者 高野清文さん 昭和51(1976)年7月30日失踪
http://chosa-kai.jp/cgi-bin/address/list3.cgi?word3=80&mode=search3

(この後のお母さんが事故に遭われた時のお話は省略させていただきます。詳しくは美幸さんのブログをお読みになってください。)
 ↓ ↓ ↓
*大した事無く、生きていて良かった。 美幸さんのブログより
http://konaboration-ssq.seesaa.net/article/36422622.html

 私はまだこういう所で言えますけども、言えない家族がまだたくさんいます。本当に一刻も早く帰って来て、解決してほしいと思っております。(大拍手)

【特定失踪者 寺島佐津子さんのご両親】
 皆さん、こんにちは。私は皆さま方のすぐ隣の横浜・戸塚から参りました、寺島です。事件の概要は、今、大澤さんからご説明があった通り、昭和54年の8月10日、夜遅くに事件が発生したわけです。この会場の中の皆さま方には、もしかしたら事件当時の内容などはテレビ・新聞等でご記憶の方もおられるかと思いますが、あれから早いものでもう28年近く経ちました。

 私たちは何もできることなく、ただ悲しみに明け暮れておりましたが、皆さま方もご記憶の通り、5年前に新潟県の曽我さんが帰って来られまして、私たちも特定失踪者問題調査会の方へお世話になり、現在に至っているわけです。

 私たちは何もできませんので、関係者の方々または特定失踪者のご家族、皆さま方の力と温かいご支援が不可欠でございます。どうか一日も早い事件の解決を見るまで皆さま方の温かいご支援よろしくお願い致します。(大拍手)

(調査会公開リストより)
*特定失踪者 寺島佐津子さん 昭和54(1979)年8月10日失踪
http://chosa-kai.jp/cgi-bin/address/list3.cgi?word3=228&mode=search3

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【特定失踪者 大澤孝司さんの兄・大澤茂樹さん】
 ありがとうございました。後ほど特定失踪者問題調査会の代表であります荒木先生がご講演される予定となっております。まだ見えておりませんが、私たち、荒木先生のもとに5年間お世話になりました。

 それで私たちの方針・活動と致しましてこの5年間は、一刻も早い真相究明と一日も早い拉致被害者の救出を日本政府に訴えてまいりましたが、今までとして1回も取り合っていただいておりませんでした。ところが、皆さま方のご支援とお力によりまして、昨年の10月安倍新政権が誕生し、安倍政権の活動として「拉致問題を最優先最重要課題」として取り組んでいただき、今現在も日本政府には一生懸命に取り組んでいただいております。

 昨年の11月9日、私ども特定失踪者家族は初めて日本政府と接触することができ、塩崎官房長官と面会することができました。そこの席におきまして塩崎官房長官は「拉致事件、特定失踪者を含めてすべての拉致被害者を奪還するまではこの問題は終結しない」とはっきりと名言していただきました。今、巷では、また、評論家の先生方々から色んなご意見がありますが、私は今しばらく日本政府を信じてまいりたいと思っております。

 どうか皆さま方のお力で私どもの家族、特定失踪者を含めた拉致被害者が一刻も早く帰国できるよう、さらなる皆さま方のご支援とご協力をよろしくお願い致します。ありがとうございました。(大拍手)

*官房長官への要請については、調査会ニュース2006年11月のバックナンバー、427〜430をご覧になってください。
http://chosa-kai.jp/kakonews.html

 最後になりましたが、「しおかぜ」のお話をちょっとさせていただきます。

【特定失踪者 高野清文さんの妹・高野美幸さん】
 後ほど荒木代表から詳しいお話があるかもしれませんが、「しおかぜ」がこの3月26日から八俣のKDDIさんの通信所から、国内からの短波放送を総務省に許可をいただきまして放送が始まったのですが、29日の時点ですでに妨害電波が入ったというお話を先ほど(北朝鮮難民救援基金の)加藤先生からあったと思うんですけども、そういったことで色んな意味で大変な苦労を調査会にしていただいて、私たち家族、支えてきてもらってきています。

 そうした調査会の支援グッズも本日会場内で販売しております。署名活動の方もしております。カンパももちろん募っておりますので、どうか皆さまのご協力をお願いしたいと思います。(大拍手)

【特定失踪者 大澤孝司さんの兄・大澤茂樹さん】
 どうもありがとうございました。(大拍手)

*特定失踪者問題調査会
http://chosa-kai.jp/
*'07 3/31 第16回藤沢市民集会 荒木和博さん
http://aoinomama13.seesaa.net/article/43315700.html

*'07 3/31 第16回藤沢市民集会 特定失踪者ご家族の訴え(大澤茂樹さん 高野美幸さん 寺島さん) aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/44834123.html

頭痛と5日間
( 2007.6.12,火 )

 先週の8日から12日まで、実家の父と妹とわんこが遊びに来ていました。今回も父たちは東京ドームの巨人戦を2試合観戦(9日と11日)、わんこは私と家でお留守番していました。

 巨人は2試合とも勝ち、みんな大満足!写真は11日、ドーム前での抽選会の様子です。(ものすごい雷雨のあと晴れ間が)昨年夏には妹がこの抽選会で数組のドームツアーに当たり、巨人ベンチやらベンチ裏の大鏡を広報の方に案内していただいたそうです。撮影してきた写真を見ると、父は原監督専用ベンチに座ってご満悦でした。ファンの方にはたまらないツアーだったようです。(いつか紹介したいと思っています)今回は残念ながら?はずれてしまったとのこと。そんなに何回も当たらないわよ〜!

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*試合前の練習。ボケてしまっています。(泣)

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 父と妹がいない間、わんこは家でおとなしくしていました。父たちが戻って来るともうはしゃいで大変でした。

 あおいのママは先月からのカゼがなかなか治らず現在も頭痛に悩まされ、この5日間もスッキリしませんでした。そういうわけで、空いた日はみんなで車で周れる近場の大型店に行きました。(ららぽーと柏の葉、モラージュ柏、イオン柏)

 私たちは普段二人だけの生活なので、実家が来ると何かと忙しなくなりますが、みんな帰るとやはり寂しいです・・・。ああ、それにしても頭痛早く治って!ズッキーンって痛いよ〜!!

*頭痛と5日間 aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/44662862.html

6/10 フジテレビ「新報道プレミアA」北のニセ札を見破れ! 下町・熱血エンジニアの戦い
( 2007.6.11,月 )
*6/3フジテレビ放送の「新報道プレミアA」の一部を文字化しました。約20分間の放送でした。

*6/10 フジテレビ「新報道プレミアA」ニセ札取引の瞬間
http://aoinomama13.seesaa.net/article/44534236.html

続き

【ナレーター】
 秋葉原を歩く1人の男。エンジニア・松村喜秀(57)。趣味は機械いじり。

【ニセ札鑑定士・松村喜秀さん】
 「(品物を)買ったらすべてバラしちゃいます。バラして楽しんでいます。相手はどういう発想でこういう物を作ったかというのと、自分だったらこれの動きをちょっと違うやり方でやるなだとか、そういうのがおもしろいんですね。」

【ナレーター】
 ただの機械マニアではない。世界は彼をこう呼んでいる。「偽札バスター」。国家ぐるみでの製造とされる北朝鮮のニセ札。その取り引きの瞬間をとらえた映像を入手した。(2007年5月)

 中国と北朝鮮の国境付近、向って奥が北朝鮮側。北朝鮮兵士のすぐ側にいるのは中国人ブローカーだ。川を挟んで両者は接触した。何かを取り引きしたようだ。ブローカーの手に握られていたのは2枚のドル紙幣。これが北朝鮮のニセドルなのか?

 あるルートを通じ、この紙幣が「偽札バスター」松村の元に持ち込まれた。(東京台東区・松村テクノロジー)彼はある機械に紙幣を入れた。すると・・・瞬時にしてニセ札と見破った。これが松村が開発した精巧なニセ札を見破る鑑別機だ。その誕生には長い道のりがあった。

【ニセ札鑑定士・松村喜秀さん】
 「だってこれ(ニセ札)をもらった時、これのどこが偽なの?というのが、触ってもニオイをかいでも偽っていう証拠がないんですよね、そういうとこが決め手の・・・。」

【ナレーター】
 命がけで手に入れた究極のニセドル。その秘密を暴き出すため、町工場のオヤジが戦いを挑んだ。突き動かしたのはエンジニアの意地。「この瞬間も世界中のどっかでニセ札を作り続けているエンジニアがいるんだよ。オレはそんな卑怯な奴らを許せないっ!」

 だが、そこには大きな壁が立ちはだかっていた。探し続けたのは“偽という証(あかし)”―。

「運命の舞台裏 X」 北のニセ札を見破れ! 下町・熱血エンジニアの戦い

【ナレーター・松村喜秀さん】(再現ドラマ)
 当時私は小さな会社を立ち上げ、電子回路の設計を手がけていた。(1987年夏 松村エンジニアリング)そこに意外な注文が飛び込んできた。ソウルオリンピックに備えて「ニセドルを見破る鑑別機を作ってくれ」というのである。ニセ札など見たこともなかったが、半年で鑑別機を完成させた。私にとっては単なる製品の一つだった。だが、それが私の人生を大きく変えることとなった。

【松村社長】
 「ニセ札はこのようにはじき出します。」

【お得意さん】
 「松村さん、よくやってくれました。」

【ナレーター・松村喜秀さん】
 評判は上々、鑑別機は売れに売れた。しかし(1988年)ソウルオリンピックが終わって一転・・・。

【松村社長】
 「○○さん、それどういうことですか?そんなこと言っても、○○さんー!」(電話が切れる)

【会社従業員・イワモトさん】
 「社長?どうしたんですか?」

【村松社長】
 「イワモト・・・ニセドル鑑別機はもういらないと・・・。」

【会社従業員・イワモトさん】
 「いらないって、ど、どういうことです!」

【ナレーター・松村喜秀さん】
 私の鑑別機をいとも簡単に突破する精巧なニセ札が現れたのだという。残されたのは在庫の山と多額の借金。そして何より技術で負けたことが屈辱だった。

【ニセ札鑑定士・松村喜秀さん】
 「誰がこんなすごいニセっていうか、うちの機械を通すようなそういうニセ(札)を作っているんだろうと。これ疑問とあとは憎しみ・・・」

【ナレーター・松村喜秀さん】(再現ドラマ)
 諦めるわけにはいかなかった。(社員を集めて会議をする)

【松村社長】
 「東南アジアへ行く。ニセドルが多く出回っているそうだ。」

【会社従業員・イワモトさん】
 「東南アジアって、どこですか?」

【松村社長】
 「わからん」

【会社従業員・イワモトさん】
 「わからんって・・・」

【松村社長】
 「だからわからん。タイ、カンボジア、ベトナム、フィリピン、マカオ、香港、ニセドルが飛び交っていそうなマフィアが仕切っている場所を手当たり次第に当たってみる。」

【会社従業員】
 「どうしてうちがそこまでやらなきゃならないんですか!」

【会社従業員・イワモトさん】
 「社長の気持ちはわかります。あれだけ骨身を削って作った機械があっという間に二束三文の値打ちしかなくなるなんて・・・」

【松村社長】
 「違うっ!オレが言いたいのはそんなことじゃないんだよ!ニセ札鑑別機を作ったオレたちもエンジニアだ。ニセ札を作っているのもエンジニアなんだよ。今もこの瞬間も、世界中のどっかでニセ札を作り続けているエンジニアがいるんだよ。オレはそんな卑怯な奴らを許せないんだよっ!」

【会社従業員・イワモトさん】
 「社長・・・」

【松村社長】
 「必ずニセ札を見つけてみせる!これはエンジニアとしての意地だ!」

【ナレーター・松村喜秀さん】
 以来、東南アジアを転々とした。あてなどなかった。行くのは観光客も寄り付かない危険な場所ばかり。しかし、苦労してやっと手に入れたニセ札も一目見て偽物とわかるような代物ばかりだった。

 そんな中、私はニセ札の出所についてあるウワサを耳にする。それがあの国だった。

【ニセ札鑑定士・松村喜秀さん】
 「北朝鮮と非常に親しい国だけが大量に(ニセ札が)発見されていたんです。色んなことを調べているうちに段々疑惑というか、これが強まってきたんですよ。」

【ナレーター】
 実はその頃、北朝鮮は金正日書記を中心にニセドルの大量生産を開始。それを海外に持ち出し本物と取り替えるマネーロンダリング(資金洗浄)を行い、外貨を獲得していたという。アメリカの元政府高官は北朝鮮のニセ札作りについて次のように証言する。

【アメリカ合衆国元国務省顧問 デビット・アッシャー氏】
 「北朝鮮のニセ札は、本物の紙幣とまったく同じ技術・方法・安全対策が取られています。国際社会に対する明らかな挑発であり、決して許されない行為です。」

【ナレーター・松村喜秀さん】(再現ドラマ)
 私は図らずも北朝鮮という巨大な国家の犯罪に向き合おうとしていたのである。

 ニセ札を探し始めて2年(1990年)、私はカンボジアのある場末のクラブに通いつめていた。(店内のシーン)「このマフィアが精巧なニセ札を持っている」という情報を聞きつけたのだ。

【マフィア】
 「マツムラさん、ベリー変な人ね。NOガール、NOドラッグ、NOマリファナ、ウィスキ リトル、何好き?」

【松村社長】
 「う〜ん・・・」

【マフィア】
 「マツムラさん、トモダチ。プレゼント フォーユー」

【松村社長】
 「NONONO、いいの」

【マフィア】
 「プレゼント フォーユー」

【松村社長】
 「(頼むなら今しかない!)・・・ニセ札が欲しい」

【マフィア】
 「ファット?」

【松村社長】
 (お金を出す)

【マフィア】
 「お前、何を考えているんだ。そんなヤバイ物、どうする気だ?出て行けー!!」(突然怒り出す)

【ニセ札鑑定士・松村喜秀さん】
 「言葉がわからないので、何て言ったか覚えてないけど、非常に怒っていました。怒って、相手は殴られていないのが不思議というくらい。もう言っちゃったんで後は引けなくなっちゃったんで・・・」

【ナレーター・松村喜秀さん】(再現ドラマ)
 資金も底をつき、帰国の日は迫っていた。(トラブルの翌日)

【松村社長】
 「ミスター○○・・・」

【マフィア】
 「2万」

【松村社長】
 「2万?」

【マフィア】
 「ハイ、2万!」

【ナレーター・松村喜秀さん】
 2万円と引き換えに渡されたのは・・・4枚の100ドル札。どう考えても値段が釣り合わない。ニセ札だ!

【ニセ札鑑定士・松村喜秀さん】
 「だって、これをもらった時にですね、これのどこがニセなの?というのが、触ってもニオイをかいでも、あるいは透かしを見ても、透かしも全部入っているでしょ、これ。だからすべて入ってるんで、ニセという証拠がないんですよね、そういうところだけ見ても。」

【ナレーター】
 そのニセ札は想像をはるかに超えていた。数字を囲む緩やかな曲線、さらに肉眼では見えないほど小さな文字まで正確に印刷されていた。

【ニセ札鑑定士・松村喜秀さん】
 「すべて同じなのに、これは本物でこれが偽物と言ったら、どうして?ってなっちゃうじゃないですか。そのどうして?を証明するまでが大変だったんです。」

【ナレーター】
 ニセの証をつかまない限り、このニセ札を見破る鑑別機は作れない。松村の新たな戦いが始まった。

【会社従業員・イワモトさん】(再現ドラマ)
 「社長・・・、これやっぱり本物じゃないですか?どう調べても本物ですよ。紙もインクも何もかも・・・」(拡大コピーしてニセの証を探す社員たち)

【松村社長】
 「だから、よくできたニセ札なんだよ。もっと調べろよ。」

【会社従業員・イワモトさん】
 「ねぇ社長、もうやめにしませんか?鑑別機の開発に経費も人手も取られて、会社火の車なんですよ!海外出張だって、こう度々・・・」

【松村社長】
 「やめない!何が何でもやめないよ!ニセドルを見つけ出して、それを鑑別できる機械を作るまでは絶対にやめない!」

【会社従業員・イワモトさん】
 「ですが、社長・・・」

【ナレーター・松村喜秀さん】
 私は夜を徹して鑑別を続けた。飽きるほど見つめ、そして触り続けた。

【ニセ札鑑定士・松村喜秀さん】
 「ニオイもかいでみたり、くしゃくしゃにしてやってみたり。あるいはお金ってよく見ると毛が立っているんですよ、その毛の高さを測ってみたり、あるいは色んなクリップや針で傷をつけてその傷の立ち具合を調べてみたり、色々やったんですけど・・・」

【ナレーター・松村喜秀さん】(再現ドラマ)
 やれることはすべて試した。しかし違いはわからなかった。もうヤケクソになっていた。

【会社従業員・イワモトさん】
 「社長、な、なにするんですか!あ、ああっ〜!」(ニセ札を切り刻んで食べるのを見て)

【松村社長】
 「味はまだ調べてないだろう?もしかしたら本物と偽物はインクの味が違うかもしれない。なっ!」

【会社従業員・イワモトさん】
 「何もそこまで」

【松村社長】
 「お前も食え」

【会社従業員・イワモトさん】
 「はぁ?わぁっ・・・」(口に入れられる)

【ニセ札鑑定士・松村喜秀さん】
 「ちょっとしょっぱかったんですよ。しょっぱいっていうのは、人が触っちゃって、まぁちょっと汚いけど汗がそのまま染みこんじゃったんで、しょっぱい味はしました。」

【記者】
 「しかし食べるって、そこまでしなくてもよかったんじゃないですか?」

【ニセ札鑑定士・松村喜秀さん】
 「いや、だけど違いがあんまりにも見つからないんで、どうしようもなかったんです。」

【ナレーター】
 しかしこのあと奇跡が・・・。下町のエンジニアが暴いたニセ札の証とは―。

【ナレーター・松村喜秀さん】(再現ドラマ)
 会社は火の車。だが、借金できる銀行はどこにもなく、私はついに子どもの貯金まで持ち出した。もうどうにもならないところまできていた。

【松村社長】
 「ごめん・・・」(寝ている子どもに謝る)

【ナレーター・松村喜秀さん】
 その時だった!(電話が鳴る)

【松村社長】
 「もしもし、松村です。」

【会社従業員・イワモトさん】
 「社長!わかりましたっ!見つけましたよ、偽物ですっ!」

【松村社長】
 「そうかっ!」

【ナレーター・松村喜秀さん】
 家庭も会社も顧みず、エンジニアの意地だけで突き進んで来た。まさに起死回生の大逆転だった。

【ナレーター】
 松村が発見したのは1,000分の1ミリのわずかな違いだった。

【ニセ札鑑定士・松村喜秀さん】
 「ここが切れています。ちょこっと切れています。ここがニセなんです。」

【記者】
 「ああ。線が最後までつながっていないんですね。」

【ニセ札鑑定士・松村喜秀さん】
 「つながってないんです。」

【ナレーター】
 その違いの一つは、中央の肖像画を囲む線。本物は最後までつながっているのに対し、ニセ札は切れている。そしてもう一つは、左下の数字を囲む2本の線。本物は2本が並行に延びているが、ニセ札は途中でくっ付いている。松村は全米のすべての印刷工場から本物を取り寄せ、違いを照合。2つの特徴を持つ紙幣は存在しなかった。

 これをきっかけに松村は、磁気や印刷パターンなど次々とニセ札の特徴を発見。それらのデータをすべてインプットし完成したのがこの鑑別機だ(偽札鑑別機「EXC−5700A」)。

 鑑別機には、磁気や赤外線を調べる高性能のセンサーを搭載。わずか0.7秒で見分ける驚異の鑑別機の誕生だった。そして松村はあのニセ札を北朝鮮にちなんでこう名付ける。

“SUPER K”(スーパーK)

 下町のエンジニアが世界で初めてその正体を見破ったのだ。

 1996年(6月10日)、ニューズウィークが松村の特集記事を掲載。「偽札バスター」と名付けたことで松村の名は世界に広まった。たちまち世界中から注文が殺到。現在、世界70カ国の金融機関・ホテル・免税店などに3万台を出荷。さらに捜査機関や通貨当局が協力を求めるまで松村の名は世界にとどろいた。

【アメリカ合衆国元国務省顧問 デビット・アッシャー氏】
 「松村さんの偽札鑑別機は素晴らしく、アメリカにとって大きな貢献をしてくれました。今や彼は警察当局や財務省からも高い評価を得ているのです。」

【ナレーター】
 1996年、アメリカは偽造防止のため68年ぶりに100ドル札を変更。しかし北朝鮮はその後も“SUPER M”(2000年)“SUPER X”(2002年)“SUPER Z”(2004年)“SUPER Z1”(2006年)と、より精巧なニセ札を製造。松村はそのわずかな違いを見破り、改良を続けている。北朝鮮と下町のエンジニアの戦いが今も続いているのだ。

【ニセ札鑑定士・松村喜秀さん】
 「本当はなくなるべきだし、あっちゃいけないんですけども、永遠になくならないんで、永遠に僕とは付き合いが続くもの。『もう何が何でも見破ってやる!』っていう『その魂まで見破ってやる!』っていう、そういう気持ちがありますね。」

【ナレーター】
 今年5月、松村は韓国へ飛び立った。「また新たなニセ札が出回っている」というウワサを聞きつけて―。

世界が絶賛した下町製・・・偽札鑑別機

【アナウンサー・滝川クリステルさん】(スタジオにて)
 「はい、それではですね、こちらに松村さんが作った最新の偽札鑑別機を用意しました。」

【アナウンサー・安藤優子さん】(スタジオにて)
 「意外に小さいものなんですねぇ。コンパクトなんですね。」

【アナウンサー・滝川クリステルさん】(スタジオにて)
 「それでは早速、本物の100ドル札を通してみましょう。いきますね。もちろん本物ですから一瞬にして通りました。そしてこちらおもちゃの100ドル札を用意しました。いきますね。一瞬にしてはじいてくれるんですよ。」

【アナウンサー・安藤優子さん】(スタジオにて)
 「しかし、人の、本当に日本の誇る匠の技っていうんですか、ああいうの。もう執念に執念をかけてこのニセ札の鑑別機を作っているわけですよね。」

【ゲスト】
 「見ていると応援したくなりますよね。でもこれが永久に続くとどういうふうになるんですかね。ほとんど完璧なものができあがっちゃうと・・・怖いですね。」

【アナウンサー・安藤優子さん】(スタジオにて)
 「ええそうですね。ただ櫻井さん、北朝鮮で作っているニセ札の進化のスピードというのはどんどん早くなっているそうです。」

【ジャーナリスト・櫻井よしこさん】(スタジオにて)
 「もうあれは国家事業ですからね。国家事業の中でもまさに金正日体制は国運をかけてやっているわけですからね。でも彼はね、『魂まで見破ってやる!』と。あの気概をね、もう日本の外交官や政治家にも聞かせてやりたいと思いました。」

【アナウンサー・安藤優子さん】(スタジオにて)
 「アメリカ財務省も2006年『北朝鮮が国家ぐるみでニセ札を製造している』と断定をしました。で、これまでに『およそ5000万ドル分のニセ札を世界中で押収した』と発表しているんですが、これはほんの本当に出回っている氷山の一角というふうに思われます。何しろ、北朝鮮の三大輸出物は“ニセ札”“覚せい剤”そして“ミサイル”と言われております。」

終わり

過去のニセ札関連の記事です。
 ↓ ↓ ↓
*'07 1/14 TBS「報道特集」北朝鮮に異変 蝕まれる独裁体制(ニセ札)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/32283030.html
*'06 12/10 TBS「報道特集」“新型”偽100ドル札(1)〜(2)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/32747619.html
*'06 10/1 テレビ朝日「サンデープロジェクト」
 北朝鮮ヤミ資金ルート(1)〜(2)
 
http://aoinomama13.seesaa.net/article/24809569.html
*'06 3/5 TBS「報道特集」北朝鮮ニセ札疑惑(1)〜(3)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/14414118.html

*6/10 フジテレビ「新報道プレミアA」北のニセ札を見破れ! 下町・熱血エンジニアの戦い aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/44721485.html

6/10 フジテレビ「新報道プレミアA」ニセ札取引の瞬間
2007.6.10,日
*6/10フジテレビ放送の「新報道プレミアA」の一部を文字化しました。約6分間の放送でした。

「撮影は後だ・・・隠せ!」密かに取り引きされる精巧な偽札。今も続く水面下の攻防とは―。

独占映像入手! ニセ札取引の「瞬間」

【ナレーター】
 それは荒地を行く男たちの映像から始まった。3人の男たち、彼らは中国側のニセ札ブローカーだ。場所は中国東部の町・延吉(エンキチ)からおよそ120キロ、北朝鮮との国境に流れる川・豆満江(トマンコウ)の河川敷。ブローカーたちが持っているのは網や棒なが、漁師を装うためだ。対岸の北朝鮮側には国境の監視小屋、そこに2人の警備兵がいる。

 ブローカーたちは平然と川で魚を捕り始めた。10分後、対岸にはさらに制服姿の3人の男が現れた。いでたちからすると彼らも国境警備兵のようだ。しかし、その警備兵たちも何故か川に入り魚を捕り始めた。一体、何が始まるのか?

 ブローカーたちがゆっくりと移動する。向った先は魚を捕っている警備兵。と、その時・・・、警備兵の1人がやぶの中に姿を消した。どこに・・・?いた!ブローカーと接触している。およそ1分、2人は何やらやり取りしていた。

 戻ってきたブローカーが手にしていたのは100ドル紙幣。これが「ニセ札」だという。

【中国人ブローカー】
 「撮影は後だ!これを隠せ!」

【ナレーター】
 国境警備隊との接触、まさにこの時がニセ札取り引きの決定的瞬間だったのである。今の北朝鮮では配給などが途絶え、国境警備兵でさえ生活のためにこうした犯罪に手を染めている、という。

 ブローカーたちはこの100ドル紙幣を1枚あたり19万6000ウォン、およそ70ドルで購入。貿易などで本物の紙幣に混ぜて使うのだという。

 鑑定のためにこのニセ札が日本の専門家の元に届けられた。

世界的鑑定士が見たニセ札“真偽”と“種類”

【ナレーター】
 早速その100ドル紙幣を鑑定する。ニセ札には偽造グループが判別するために必ず本物と違う箇所、つまり目印がある。精巧なニセ札ほど、その目印が分かりにくい。

【記者】
 「ニセ札としてはどれくらいのレベルですか?」

【ニセ札鑑定士・村松喜秀さん】
 「“スーパーZ”クラスです。」

【ナレーター】
 “スーパーZ”。1枚70ドルで売られていたニセ100ドル紙幣は、一時は世界を震撼させた超精巧なニセ札だった。

【ニセ札鑑定士・村松喜秀さん】
 「ここがニセなんです。ここが角ばっていますよね。これがもうちょっと丸まって『1』という耳になるとこれは本物と一緒なんです。」

【ナレーター】
 これが本物の100ドル紙幣。偽物を見抜くポイントを抜き出して“スーパーZ”と比較してみた。すると確かに(ニセ札は)「1」の字の先端がやや角ばっている。そして「N」の文字の影にも(ニセ札は)わずかに隙間がある。指摘がなければ気づかない程だ。

【ニセ札鑑定士・村松喜秀さん】
 「紙そのものも非常にいい紙を使っています。本物と同じ紙を使っています。」

【ナレーター】
 だがアメリカ政府によれば、これまでに出回った北朝鮮製のニセ100ドル紙幣は19種類。現在はさらに精巧な“スーパーZ2”が存在するという。そしてニセ札は次々と進化し続け、国境を越えて世界に広がっている―。

【アナウンサー・滝川クリステルさん】(スタジオにて)
 「はい、今ご覧いただいたニセ札“スーパーZ”ですけれども、拡大したものをこちらに用意させていただきました。あの、例えばですね、一番わかりやすい違いなんですけれども、こちらを拡大してください。こちらの「N」ですね、こちらにですね、わかりますでしょうか?白い隙間があるんですね。あちらの本物と“スーパーZ”の違いなんです。(本物は)ここが黒いんです。こちら(ニセ札)は白いと。隙間があるわけですね。」

【アナウンサー・安藤優子さん】(スタジオにて)
 「これだけですか?違いは?」

【アナウンサー・滝川クリステルさん】(スタジオにて)
 「表面上はないんですけれども、裏とか裏面だとか磁気の方には他の違いがあるということなんですけれども。」

【アナウンサー・安藤優子さん】(スタジオにて)
 「はぁー、って言うしかないんですが。そしてこうしたですね、精巧なニセ札を見破ってニセ札鑑定機を作り上げて、世界中の賞賛を集めている会社が実は東京台東区にあるんですね。このニセ札と戦い続ける下町のエンジニアの執念のドラマをご覧いただきます。」

続く

*「北のニセ札を見破れ! 下町・熱血エンジニアの戦い」の文字化はもうしばらくお待ちくださいネ!

過去のニセ札関連の記事です。
 ↓ ↓ ↓
*'07 1/14 TBS「報道特集」北朝鮮に異変 蝕まれる独裁体制(ニセ札)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/32283030.html
*'06 12/10 TBS「報道特集」“新型”偽100ドル札(1)〜(2)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/32747619.html
*'06 10/1 テレビ朝日「サンデープロジェクト」
 北朝鮮ヤミ資金ルート(1)〜(2)
 
http://aoinomama13.seesaa.net/article/24809569.html
*'06 3/5 TBS「報道特集」北朝鮮ニセ札疑惑(1)〜(3)
http://aoinomama13.seesaa.net/article/14414118.html

*6/10 フジテレビ「新報道プレミアA」ニセ札取引の瞬間 aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/44534236.html

特定失踪者 矢倉富康さんと古都瑞子さん 1000番台リストへ
( 2007.6.6,水 )
 本日、特定失踪者問題調査会より第12次1000番台リスト(矢倉富康さん・古都瑞子さん)が発表されました。北朝鮮による拉致の可能性が非常に高いということで、矢倉さんと古都さんについては以前にTBS「報道特集」で詳しく取り上げ放送しています。その番組を文字化テキストにしておりますので、よろしかったらご覧になってください。(写真はテレビより撮影しましたので不鮮明です)

*番組内ではその他、広田公一さん・河嶋功一さん・石坂孝さん、拉致被害者 松本京子さんについても取り上げています。

*'06 12/3 TBS「報道特集」失踪した日本人特殊技術者
http://aoinomama13.seesaa.net/article/29436087.html

報道特集12.03.08.jpg

*特定失踪者 古都瑞子さん 昭和52(1977)年11月14日失踪 調査会リストより
http://chosa-kai.jp/cgi-bin/address/list3.cgi?word3=92&mode=search3

報道特集12.03.01.jpg

*特定失踪者 矢倉富康さん 昭和63(1988)年8月2日失踪 調査会リストより
http://chosa-kai.jp/cgi-bin/address/list3.cgi?word3=138&mode=search3

[調査会NEWS 515](19.6.6)より

 ■1000番台リスト(第12次)発表

 本日下記のお二人についてゼロ番台リスト(拉致の可能性の存在する失踪者)から1000番台リスト(拉致の可能性の高い失踪者)へと変更しました。(以下敬称略)

古都 瑞子(通称・洋子) ふるいち みずこ(ようこ)

生年月日:昭和5(1930)年4月8日
失踪年月日:昭和52(1977)年11月14日
当時の年齢:47歳
当時の身分:皆生温泉で仲居。
身長:148cm 体重:45kg
失踪場所:鳥取県米子市皆生温泉街またはその周辺
当時の居住地:鳥取県米子市

失踪の状況

午後9時に旅館での仕事を終え一時帰宅。その後普段着に着替え出かける。自宅には近く東京へ行く切符や、ハンドバッグ、現金、常に持ち歩いていたポケベルも置いたまま。

1000番台とする根拠

・ 失踪場所および居住地が、北朝鮮との交流が頻繁に行われ、かつ松本京子さん拉致現場と同じ鳥取県米子市であること。

・ 失踪年月日が横田めぐみさん拉致の前日(もしくは同日)であり、北朝鮮が頻繁に拉致を行なっていた時期であること。

・ 北朝鮮からの脱北者による目撃証言があること。
2002年に脱北した北朝鮮の元踊子・金聖愛さんによる目撃証言
「姑の親友にとてもよく似ています。この人と最初に会ったのは90年。清津の『外貨食堂』で行った私の結婚式で、歌と踊りを披露してくれました。(中略)踊りは日本の伝統的なものだそうで、とても上手でした。そのとき、『SEIKО』の腕時計をお祝いに貰ったのを覚えています」
「身長は150〜160cm(実際は148cm)で、出会った当時は60歳ぐらい。(中略)私も彼女とはたくさん話をしましたよ。『あなたは(踊りの)才能がある。日本に行けばたくさんおカネを稼げるわ』とよく褒められました」(週刊誌『フライデー』平成16年1月23日号より抜粋)

矢倉 富康 やくら・とみやす

生年月日:昭和26(1951)年11月23日
失踪年月日:昭和63(1988)年8月2日
当時の年齢:36歳
当時の身分:漁師(元エンジニア)
身長:165〜170cm
失踪場所:鳥取県沖海上
当時の居住地:鳥取県米子市

失踪の状況

2日夕方6時、漁に境港港から一人「一世丸(いっせいまる・5トン)で出発して翌3日朝6時に帰港する予定だったが行方不明。美保関と隠岐島の中間地点で漁をする予定だった。海上保安庁と漁業組合全員が操業を中止して操業海域を捜索したが手がかりなし。8月10日に海上保安庁が竹島沖南南東25?で一世丸を発見したが本人の姿はなかった。左舷前方に他の船と衝突した痕跡。3年前(昭和59年に勤務先の会社が倒産)まで精密工作機械製作のエンジニアだった。

1000番台とする根拠

・ 失踪場所および居住地が、北朝鮮との交流が頻繁に行われ、かつ松本京子さん拉致現場と同じ鳥取県米子市(沖)であること。

・ 失踪の状況が極めて不自然であること。

 矢倉さんは美保関と隠岐島の中間点あたりで漁をする予定だったが、船が発見されたのはおよそ200km近く離れた竹島沖だった。一世丸は自動操舵となっていて、オイルパイプの破損でエンジンが焼けついた状態で漂流していた。この状態で操業予定の地点から船が発見された地点へ航行することは不可能と思われる。また航行不能の状態でその地点へ移動することは、海流の影響からも考えられない。矢倉さん拉致の後、事故・遭難に見せかけるために曳航して行ったのではないかと思われる(昭和38年の寺越事件との類似が見られる)。

 また船の左舷前方に他の船と衝突し、かなり強い圧力を受けた痕跡があり、その部位には青色の塗料が付着していた。当時この地域で青色の塗料を使用した日本の漁船はほとんどなかった。一方北朝鮮の工作船と思われる不審船の中には青い塗料を使ったものもある。

・ 優秀な技術者であったこと。

 矢倉さんが3年前まで勤務していた日本精機株式会社(昭和59年に倒産)は、精密工作機械であるマシニングセンターの国内トップの企業であった。マシニングセンターとは精密工作機械で、100分の2ミリの精度で鉄などを工作できる機械。ミサイルなど兵器関係の製造には必要不可欠で、対共産圏への輸出規制品目の一つであった。

 矢倉さんはこれを稼働させるためのパンチプログラミングから部品の製作・加工・組立・メンテナンスまで幅広くこなせる優秀な技術者であった。そのためアジアをはじめ中近東・米国・欧州などに技術指導のための出張が多くあった。韓国の『現代造船』にも半年単位で単身出張していた。またチェコスロバキア、オーストリア、ポーランドなどにも出張していた。このことからかなり早い時期から高い技術を持つ矢倉さんを拉致の対象者として着目していたものと思われる。

■調査会役員の参加する講演会等の予定

(公開のイベントのみ。救う会・家族会の役員と兼任の役員が参加する場合もありますが、調査会の役員として出席する場合のみ記載してあります)。
★6月16日(土) 福岡集会(福岡救う会主催)●代表荒木が参加
★7月28日(土)14:00〜 拉致被害者と家族の人権を考える市民集会(救う会神奈川主催)●藤沢市・藤沢産業センター●専務理事真鍋が参加●問い合わせ 川添友幸・救う会神奈川代表(090-9816-2187)

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特定失踪者問題調査会ニュース
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〒112-0004 東京都文京区後楽2-3-8 第6松屋ビル401
Tel 03-5684-5058 Fax 03-5684-5059 email:chosakai@circus.ocn.ne.jp
調査会ホームぺージ:http://www.chosa-kai.jp
戦略情報研究所ホームページ: http://www.senryaku-jouhou.jp
発行責任者 荒木和博 (送信を希望されない方、宛先の変更は
K-araki@mac.email.ne.jp 宛メールをお送り下さい)
●資金カンパのご協力をよろしくお願いします。
郵便振替口座 00160-9-583587 特定失踪者問題調査会
(ポスター・ストラップの代金と混乱する可能性がありますので、通信欄に「調査会へのカンパ」
「家族支援基金へのカンパ」「ポスター代金」「ストラップ代金」など、使途をご記入下さい)
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*特定失踪者 矢倉富康さんと古都瑞子さん 1000番台リストへ aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/44034755.html

6億の夢
( 2007.6.4,月 )

 あおいのママとパパは「1等6億円が出るかも!」と話題になったサッカーくじ第278回 BIG(ビッグ)を買いました。当たったらあれしてこれしてと夢は限りなくあったのですが、結果はもちろんすべてハズレ。ほんの少しでも夢を見られたので「まぁいっか〜」と思っていました。

 しか〜し、6億円に届かなかったとはいえ、1等は5億6313万2913円という高額。全国で7口が当たり、その販売店舗が発表されたのを知って、私は驚きのあまり卒倒しそうになりました。7口のうちの1口は「千葉県柏市名戸ヶ谷の文教堂新柏店」で販売されていたとか。な、な〜んと、近所ではありませんか!もしやあそこでは?と思い、場所を調べてみたら、やはり何度か行ったことのあるお店でした。

 くやし〜!買っておけばよかったぁ。(泣)ぜんぜん縁のないお店からの当選だったらあきらめもつくけど、近所のしかも何度か行っていたお店だと思うと非常にくやしいものですね。

BIG01.jpg

 ここのところカゼが長引いてあまり出かけていなかったのですが、3日(日)に「幸運にあやかろう」とパパと一緒にお店に行ってみました。あれから2週間近く経っているからか、当選ムードはもうおさまっているようですね。「私たちにも幸運を」と手を合わせて、写真をパチリ。

BIG03.jpg

 お店の入口でtotoの予想をしている人たちを何人か見かけました。totoもおもしろいんだけど、地元柏レイソルの負けを予想できない私たちはなかなか当たらない・・・。でもビッグとともに「またやってみようかな」って気になりました。

 しばらくウロウロして、同じビルの中の新しいお店でお腹いっぱい食事をして帰りました。(^^)

第278回 BIG(ビッグ)1等当選くじ5億6313万2913円販売店舗

・千葉県柏市 文教堂新柏店
・東京都葛飾区 新小岩ウイナーズショップ
・奈良県大和郡山市 アピタ大和郡山店
・広島県福山市 啓文社新市店
・松山市 サッカープロショップいわさき
・自動車用品販売イエローハット(非公表)2口

*第278回 (05/19―05/20)BIGくじ結果
http://www.toto-dream.com/big/result/static/SK5150_0278.html

*6億の夢 aoi blog
http://aoinomama13.seesaa.net/article/43986809.html

6/3 フジテレビ「新報道プレミアA」全検証!命がけ“奇跡の航海”
2007.6.3,日
*6/3フジテレビ放送の「新報道プレミアA」の一部を文字化しました。約15分間の放送でした。

「船にしがみついていた・・・」 全検証!命がけ“奇跡の航海”

【アナウンサー・安藤優子さん】(スタジオにて)
 「さて、『北朝鮮からやって来た』と語っています男女4人が乗って来たのは、ご覧のような木でできた小型の船なんです。これ全長が7.3メートル、こうやって見ますと意外に大きいかなぁという感じもするんですが、やはりですね、よくこれだけの小さな船ではるばる日本海をやって来たなぁという感じが致します。

 で、中を見ていただこうと思います。中央にエンジンが1機、そして実は予備のエンジンも見えるんですねぇ。さらには燃料用のポリタンクも積まれていました。この小型の船に乗っていた男女4人なんですが、真ん中に座っている人物が舵(かじ)を取って、他の3人はご覧のようにそれぞれ船首の部分と船尾に分かれて乗り込んでいた、というふうに思われます。

 それにしましても、こんなに古い、しかも屋根のない小型船でどうやって北朝鮮から青森まで辿り着いたのか、はるばるやって来たなぁという感じがするんですが、私どもの取材によって意外な事実がたくさん明らかになってきました。」

*「脱北」4人、韓国移送で調整 生活苦…パン1日おき 
 SankeiWEBより

http://www.sankei.co.jp/shakai/jiken/070604/jkn070604000.htm

「船にしがみつき・・・」 一家4人・・・命がけの航海

【ナレーター】
 土曜日未明(6月2日)、青森県深浦町付近に木造船が突如現れた。船の第一発見者を捜し出し、独自に話を聞くことができた。

【第一発見者】
 「あれ、何かおかしいなとみんなで見ていた。その船体が真っ黒だったし。日本の船でこういう真っ黒な船はないよなぁとみんなで話していたんですよ。」

【ナレーター】
 「日本では見かけない」という古い木造船。その船には男性3人と女性一人が乗っていた。

【第一発見者】
 「そのうちこう中の方にずーっと入ってきて、私と目と目が合ってしまったんですよ。で、(目が)あった時に、片言の言葉で『ここ、新潟?新潟?』って2回聞いたんですけど。こっちは(その人たちを)ほら知らないから、『いや、違いますよ、青森だよ』って言ったけども、その『アオモリ』っていう言葉も分からないで、ただ『ニイガタ、ニイガタ』って・・・」

【ナレーター】
 4人は北朝鮮から逃れて新潟に行こうとしていた。

【第一発見者】
 「指で『向こうが北海道、で、こっちが新潟』ってことで話してやったんですよ。でも全然分からなくて。何かおかしいなということで、警察の方へ連絡したってことですね。」

【ナレーター】
 通報を受けてやって来た警察に保護されて座っているのは、向って左側が20代から30代という息子と、右側が62歳の母親。母親は疲れているのか、地面に手をつきぐったりと座り込んでしまっている。その傍らで息子は頬杖をつきながら船をジッと見つめていた。

【目撃した地元住民】
 「もう女の人は疲れたような感じで、こうガタッとぐったりとしていたけども、お父さんは元気そうに保安部の方に対応していましたよ。」

【ナレーター】
 船の上には帽子をかぶった67歳の父親、そして20代から30代と見られる茶色のジャンパーを着た息子。二人は当局の指示のもと、船に積まれていた荷物を気丈に取り出している。白い袋の中に入っているのは食料と水だったという。

【目撃した地元住民】
 「私ども漁師の考えではちょっと想像できないような、何十億お金を積んであげると言われてもできない。命がけで来たというから本当にかわいそうだなと・・・」

【ナレーター】
 「出航から4日間は悪天候が続いて、この古い船にしがみつく状態だった」という4人。この船でどうやって日本にまで渡って来たのだろうか?今回脱北者が乗って来た木造船は、長さ7.3メートル、幅1.3メートル、高さ1メートル。一体どのような船なのだろうか?

【日本財団・山田吉彦氏】
 「これはあまり船としては安定性の良いものではありません。海岸から見える範囲くらいで漁をする場合に使われる船です。」

耕運機のエンジン転用か 完全検証!脱北支えた船

【ナレーター】
 4人が出発したという北朝鮮の港・清津(チョンジン)。フジテレビのCGセンターでその衛星写真を調べてみた。中央にあるのは軍港。写真の端にある小さな湾を拡大してみると・・・。

【記者】
 「あっ、砂浜の上にあるのは何でしょう?船?船っぽいですよね。これ大きさっていうのは?」

【CGセンターの人】
 「大体6メーター前後だと思われます。」

【ナレーター】
 船だとすれば今回の大きさと大体同じだ。「こうした小船が日本海を渡って来れるのは考えられない」という。その性能を専門家が分析した。

 船の中央には赤いエンジン、その横には燃料タンク、船の後方にも予備のエンジンと燃料タンクがあった。さらに別の燃料タンクも準備されていた。この長い棒は船の舵(かじ)を取るための舵棒だという。

【日本財団・山田吉彦氏】
 「操縦する人間はここ(真ん中)に座って、この舵棒を握りながらエンジンの具合を見ていたんです。」

【ナレーター】
 赤いエンジンには「有限公司」という文字が。

【日本財団・山田吉彦氏】
 「おそらくこれは中国製の耕運機か何かのエンジンを改