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2005年03月の日記

3/13 TBS「報道特集」にて(3)
( 2005.3.30,水 )

*写真は2004年10月10日、浦和駅前で署名活動に参加されていました特定失踪者「生島孝子さん」のお姉さんの馨子さんです。お母さんの介護をしながらのご参加で、一生懸命に妹孝子さんの救出を訴えていらっしゃいました。


*秋田の中学生と小学生の兄妹が、特定失踪者「生島孝子さん」のご家族宛てに、たくさんの「思いのこもった折り鶴」を作って送ってくださったそうです。孝子さんのお姉さんは、遠くからの、子どもたちの純粋な思いにとても感激したということです。

*もう一度原点に:ブルーリボン、増元さんのメール、伊藤兄妹
電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3748


*3/13にTBSで放送された「報道特集」を、ビデオに撮ったものから文字化しました。一部をご紹介いたします。


《特定失踪者の家族 『時間がない』》

(司会者)
 さて、続いては「拉致問題」です。去年の暮れに、横田めぐみさんの遺骨とされるものが「別人のものである」と日本政府が発表して以来、北朝鮮はこの問題では強硬な姿勢を取り続けていまして、未だに進展はありません。横田さんご夫妻のお歳を考えれば、どれ程怒りと無念で燃えていらっしゃるか、容易に察することができるのですが、拉致の可能性が否定できないという特定失踪者の家族の皆さんも、年々高齢化が進んでおりまして、政府による拉致認定もないまま亡くなっていく方もいらっしゃいます。このままでは例え拉致の事実があったとしても、北朝鮮の引き延ばしによって時間切れになってしまう、そんなギリギリの状況で暮らすご家族の皆さんを取材しました。


(ナレーター)
 2/9新潟佐渡市。骨壷を抱いてバスを降りるジェンキンスさん(64)。後ろには喪服姿の曽我ひとみさん(45)。先月(2月)7日に亡くなった曽我ひとみさんの父親茂さんの葬儀の映像です。フラッシュを浴びながら式場に入って行くひとみさん。依然として母親のミヨシさんの安否はわからないまま悲しみの日を迎えました。

*曽我ひとみさんの父、茂さん 死去  電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3624

 拉致被害者地村さん夫妻、蓮池さん夫妻、半年前まで内閣官房参与として家族の支援にあたってきた中山恭子氏も駆けつけました。また、森進一・昌子夫妻の花も届き、その模様は大きく報じられました。

 しかし、曽我茂さんと同じ日に亡くなったこの人のことはあまり知られていません。

 2/11東京世田谷。生島うらさん。享年99。拉致の可能性が否定できない特定失踪者「生島孝子さん」の母親です。うらさんの娘「生島孝子さん」は、1972年東京渋谷区で姿を消しました。家出をするような理由は何もありませんでした。特定失踪者問題調査会では「生島孝子さん」を拉致の可能性が濃厚な33人の1人にあげています。

 生前、うらさんはこう話していました。(2004年6月)「あの子は心の優しい子でしたけど、だけどすごく優しい半面、しっかりした、ものすごくしっかりした、気の強いところが、芯の強い性格の子だったもんですから、どこかで自立して生きているんじゃないかと、それをそういうふうに信じるようになっちゃって・・・」

(ナレーター)
 うらさんは、2人の姉妹と一緒に孝子さんの生存を信じ続けてきました。(姉の馨子さん65・妹の敦子さん60)

 その思いが通じたのか、孝子さんによく似た女性を目撃したという人物が現れました。2004年6月 韓国ソウル。韓国人経済学者呉吉男(オ・ギルナム)博士。1985年から1年間、平壌の高級アパートで暮らしていました。彼はそこで会話をした日本人女性が「生島孝子さんに似ていた」と姉の馨子さんに伝えました。

(VTRで呉吉男氏の話)
 「この写真とこの写真、この写真は皆繋がります。こういう姿の人を私は一度見たことがあるんです。繋がります。ほぼ80〜90%間違いないです。背も容姿も年齢も・・・。」

(ナレーター)
 その翌日。(2004年6月 東京新宿)

(姉・生島馨子さん)
 「ただいま」

(母・生島うらさん)
 「おかえりなさい」

(ナレーター)
 うらさんは、帰国した馨子さんから報告を聞きました。

(姉・生島馨子さん)
 「少し良い話があった」

(母・生島うらさん)
 「良く頑張ったねぇ。きっと苦労したんだろうねぇ・・・。」

(姉・生島馨子さん)
 「見つかって、こっちに帰って来れるといいね」

(母・生島うらさん)
 「ああ、帰れるようになればね・・・。」

(姉・生島馨子さん)
 「105歳まで生きなきゃなんないのかな?」

(母・生島うらさん)
 「えっ、あと5年・・・。」

(姉・生島馨子さん)
 「あと5年、頑張れる?」

(母・生島うらさん)
 「5年なんて頑張れない、あと1年くらい・・・」(涙がこぼれる)

(ナレーター)
 しかし・・・娘との再会を果たせぬまま亡くなった生島うらさん。生きていれば昨日(3/12)100歳を迎えるはずでした。喪主を務めた孝子さんの姉・馨子さん。妹の敦子さんと共に悲しみに耐えていました。(2/11葬儀にて)

 身内がほとんどの葬儀。政府関係者の参列はありません。記者の姿も見えず、曽我茂さんの場合とは対照的です。

 そんな中、同じ立場の家族が参列していました。1974年に新潟佐渡で姿を消した特定失踪者「大澤孝司さん」の兄茂樹さん(63)です。

(大澤茂樹さん)
 「私のことのように思っております。というのは、私の親父も今年で96歳になって、もう先がありませんので、一刻も早く救出を願ってですね、日本政府の方に、1日も早く救出をやってもらいたいと思って、今日駆けつけました。」

(ナレーター)
 生前はお花の先生をしていたといううらさん。鮮やかな花に囲まれて送られます。

(姉・生島馨子さん)
 「起きなさいー!!」(泣きながらお母さんに声をかけていらっしゃいました・・・)

(ナレーター)
 参列者を前に、喪主の馨子さんがあいさつをしました。

(姉・生島馨子さん)
 「最近のうらは、娘孝子が帰って来ることを望んで、ニュースにしても話にしても、特定失踪者の話になると頭がとても冴えておりました。皆さまからすると、99歳の天寿を全うしたからよかったろう、ということでしょうが、本人は娘孝子に会えないで逝くのが非常に残念だと思います。」

(ナレーター)
 娘が北朝鮮に拉致されたと信じ、会えないまま亡くなった生島うらさん。拉致被害者や特定失踪者の家族の高齢化が進んでいます。

*特定失踪者・生島孝子さんのお母さん、死去  電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3628

(中略)

(荒木和博さん)
 「えー、今度のポスター、これで5代目のポスターになるんですが、『拉致被害者・特定失踪者ポスター』というふうにいたしまして・・・」

(ナレーター)
 特定失踪者問題調査会が新たに作ったポスター。政府が認定している拉致被害者も初めて加えました。その理由は・・・。

(荒木和博さん)
 「政府が認定しようが認定しまいが、拉致被害者は拉致被害者ですから。この中に入っている写真以外の方だって当然いるわけで、それを助けるというのは、その拉致をされている人を助けるということで、政府に認定されたから助けるのではない、ということをですね、やはり1人でも多くの方に理解していただきたいと。」

(ナレーター)
 こう話す荒木代表。これまでに集めた情報から「まだ明らかになっていない拉致被害者が大勢いる」という確信を抱いています。

(荒木和博さん)
 「どう少なくみても『100人以上はやられているだろう』と。おそらくは、それよりはるかに多くの数の人が向こう(北朝鮮)へ、自分の意思に反して連れて行かれたか、あるいは騙されて向こう(北朝鮮)に入って出られなくなったと。ともかく今やはり国民の前に、拉致被害者というのがこんな数ではないんだ、ということをわかってもらうためには、やはり政府が責任を持って、その認定をしていくということが絶対に必要だと思います。」

(ナレーター)
 特定失踪者問題調査会では、拉致問題を調べるために「政府が専門の機関を設けるべきだ」と主張しています。何故なら、遥か昔の失踪に関する情報が、今になって寄せられることもあるからです。例えばこんなふうに・・・。

(姉・生島馨子さん)
 「テレビを見た方が、調査会にお電話をくださったようですね。」

(ナレーター)
 1972年、東京渋谷で失踪した「生島孝子さん」。私たちはその姉・馨子さんを今月(3月)7日に訪ねました。99歳の母・うらさんが亡くなってちょうど1ヶ月のこの日、馨子さんは妹に関する新たな情報があったことを明らかにしました。

(姉・生島馨子さん)
 「テレビを見た方が、調査会にお電話をくださったようですね。その当時、何か『怪しい車を見かけた』という方がいらしたようですね。普段そこにいる車ではなかったようなお話でしたけど。」

(取材者)
 「それは孝子さんの職場の周りで、ということですか?」

(姉・生島馨子さん)
 「いえ、あの(住んでいた)アパートの近くのようですね。」

(ナレーター)
 新たな情報が寄せられたのは、うらさんが亡くなる2日前のこと。うらさんは「その情報提供者に会いたい」と話していました。馨子さんはうらさんのこんな姿がまぶたに焼き付いているといいます。

(姉・生島馨子さん)
 「特定失踪者問題調査会の大きい(ポスター)写真ね、あれを自分の『車イスで見える低い所に貼ってくれ』って言うわけですよね。毎日そこを通りますからね。時々こうやって自分で車イスでずずっと寄ってって、こうして色んな人の(写真)見てるんですよね。『こんなにいるんだねぇ・・・』何て言いながら。だから単純に自分の娘がいなくなった、拉致されたっていうだけじゃなくて、やっぱり『こんなに大勢いるんだ』って心配していたから、問題の大きさも少しは感じてたんじゃないかなと思いますよね。」

(ナレーター)
 拉致と向き合い続けた99歳の母。家族の願いがかなう日はいつ来るのでしょうか?


(司会者)
 突然いなくなってしまった子どもに「何とか生きて会いたい」、そんな気持ちを支えに30年余りも待ち続けてきたお父さんやお母さんたち。

 生島うらさんは残念ながら100歳を目前に亡くなってしまわれましたが、うらさんの出棺の直前、家族はうらさんの髪の毛を切って取っておいたそうです。将来、孝子さんらしき人が見つかった時に、DNA鑑定ができるように、ということなんだそうですが、家族の皆さんはこうして亡くなっていく親たちのものを大切に保存しながら、いつかその無念の思いを晴らそうとしています。特定失踪者の家族にとっては「政府に拉致認定してもらえない」という事実も、その無念の気持ちを強くさせています。

 今回「古川了子さん」の家族は、やむにやまれず国を相手に訴訟に踏み切ったわけですが、今後はこうした提訴のケースもさらに出てくるのかもしれません。

*特定失踪者問題調査会
http://www.chosa-kai.jp/
*拉致の疑いが濃厚とされる特定失踪者のリスト  電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/tokutei2.php

3/21第五回M○○○マスターズ(1)
2005.3.27,日
*写真はプールの様子です。

《下に(2)続きます》

 あおいのパパが3月21日に千葉国際総合水泳場で行われた「第五回M○○○マスターズ」に選手として参加しました。

 毎日のように、仕事を終えて練習してきた成果を発揮する場です。パパも張り切って参加したようです。昨年も参加したのですが、残念なことに惨敗だったようで、今年は昨年とは違う意気込みでした。

 あおいのママは昨年も今年も応援に行っていません。何というか恥ずかしくて見にいく勇気がありませんでした。(ごめ〜ん!)

 柏のスポーツクラブからは130人以上が選手として参加したということです。皆さん頑張って13チーム中3位だったそうです。お疲れさまでした。

《下に続きます》
  ↓↓↓

3/21第五回M○○○マスターズ(2)
2005.3.26,土
*写真はあおいのパパが「背泳ぎ」でいただいた盾です。おめでとう。(*^^*)/~~

続き

 千葉国際総合水泳場のプールは水深2メートルで、立っても足がつかないため、何度か試合前に練習に行っていました。飛び込みの練習でも、一緒に行った方の中には、恐くてなかなかできない方もいたそうです。あおいのパパは全然平気だったようですけど、毎回帰宅すると胸にアザができていました。(笑)

 聞くところによりますと、オーストラリアの金メダリスト「イアン・ソープ」や日本の金メダリストや有名選手が泳いだことのある大きなプールだということです。

 パパは今回3種目出場しました。「25メートル背泳ぎ」と「100メートル自由形」と「100メートルメドレーリレー(バタフライ)」です。結果はまあまあだったようですね!

 「25メートル背泳ぎ」では1位をとったということで、立派な盾をいただいてきました。えぇ〜?すごいね〜!おめでとう!!頑張ったかいあったね!!!○人中1位なんだから。(笑)

 スポーツクラブの皆さん、いつもお世話になりましてありがとうございます。これからもどうぞよろしくご指導ください。

3/22「戦略情報研究所第3回講演会」に行ってきました
( 2005.3.23,水 )

 あおいのママは、3/22東京芝公園の友愛会館で行われた「戦略情報研究所第3回講演会」に参加してきました。

 あいにくの冷たい雨降る晩でしたが、今回はいつもの会場ではなくて少し小さめの会場だったのですが、満席状態でした。数えておりませんが、80人くらいの方々が参加されていたのではないでしょうか。(もっと多かったらごめんなさい)

 この日の講師は「洪ヒョンさん」(元駐日韓国公使・早稲田大学現代韓国研究所客員研究員)で、講演内容は「北朝鮮の対日工作活動について」でした。


詳細 : 戦略情報研究所講演会
日時:3月22日(火)18:30〜
会場:友愛会館 1階A会議室
〒105-0014 東京都港区芝2-20-12 TEL 03-3453-5381
(都営地下鉄三田線芝公園駅A1出口徒歩2分、JR田町駅徒歩10分)
講師:洪ヒョン(元駐日韓国公使・早稲田大学現代韓国研究所客員研究員」
テーマ:北朝鮮の対日工作活動について
参加費:2000円(戦略情報研究所会員の方はお送りしてある参加証をご利用下さい)

講師略歴
1948.2 ソウル出身
1970.3 陸軍士官学校卒
1970.4 陸軍服務
    国防部(情報分析・政策・戦略研究)
1890.10 転役
     外務部・駐日韓国大使館勤務
      一等書記官・参事官・公使
2003.9 退職
2004.4 早稲田大学現代韓国研究所客員研究員


 講演が始まる前に荒木和博さんより「オフレコで」という説明がありましたので、今回は講演内容のレポートはできません。

 拉致被害者「増元るみ子さん」の弟さんの増元照明さんも参加されていまして、質疑応答の時間に「洪ヒョンさん」に一番に手を挙げて質問をしていました。

 2時間の内容の濃い講演となりました。参加された皆さん、お疲れさまでした。終了後に戦略情報研究所の方に少しばかりのブルーリボンをお渡しして帰宅しました。

1年経ちました
( 2005.3.22,火 )

 あおいのママとパパが「aoinomama13のホームページ」を公開して、今日3月22日で1年になりました。

 あおいのママが、あるサイトやヤフー掲示板に投稿していた文字化を含むレポートなどをまとめておこうと思い立って、簡単に作れるホームページに非公開でそれらのレポートを載せていました。

 たまたま、昨年3月10日の西村眞吾氏の講演会のレポートを「ここに載せていますので、使えるようでしたらご自由にどうぞ」と山本さんに連絡したのがきっかけで、1年前の今日、電脳補完録さんにリンクをしていただいて公開となりました。また、昨年11月にはリニューアルすることができました。

 このホームページを始めるにあたっては、色々と悩むことがあって、続けていけるのだろうか?と思いましたが、山本さんをはじめ多くの方々に支えられて、今日という日を迎えました。

 皆さま、いつも私たちを支えてくださって励ましてくださって本当にありがとうございます。アクセス数も4万件を超えることができて、とても感謝しております。

 これからも自分たちのできることで、拉致問題の一日も早い解決のためのお手伝いをしていこうと思います。私たちも喜びのレポートが早くできますようにとこころより願っております。

 皆さま、これからもどうぞよろしくお願い致します。

*昨年夏に早逝されたボランティアの「ももこさん」にも生前たくさん励まされ支えていただきました。写真は彼女との最後の別れの日となってしまった7月10日に、有楽町マリオン前で増元さんの選挙最終日にいただいたブルーリボンです。私たちのために作ってくださった、思いのこもったブルーリボンです。いつもつらいことがあると、この彼女のブルーリボンを見て、自分を励ましてきました。お空にいるももこさんに感謝申し上げます。ももこさん、いつもありがとうね。

思いのこもった折り鶴
( 2005.3.18,金 )
 昨年末、あおいのママは特定失踪者「高野清文さん」の妹さんの美幸さんから、名札用のビニールケースに入れられている写真の折り鶴をいただきました。美幸さんが家族会事務所に行った時に、増元さんからいただいてきた1つを、私にくださいました。

 この折り鶴のことは、電脳補完録さんのニュースで知りました。中学生と小学生の兄妹が、1つ1つこころを込めて、願いを込めて作っている折り鶴だということです。

 先月、あおいのママとパパは家族会事務所に行ったおり、増元さんからいくつかこの思いのこもった折り鶴をいただいてきました。事務所にはたくさんのこの折り鶴がありました。こんなにたくさん作って送っていたんだなぁと、とても感動しました。

 折り鶴が入っているカブトには「支え合い 生き合う」と書いてあります。折り鶴にも「愛、感謝、調和」と書かれているそうですが、さすがに鶴を広げるのは忍びなくて崩していません。(折り鶴をカブトから出してしまってごめんなさい。写真を撮った後、すぐに戻しました。)

 私たちがいただいたこの折り鶴は、特定失踪者ご家族や知り合いの方にもお渡しいたしました。支援者である大人の私たちも、頑張っている兄妹の思いに励まされました。本当にありがとうございます。

 廻り廻って私たちのもとにやって来た折り鶴の思いを、私たちはこれからも大切にしていきたいと思っております。

*もう一度原点に:ブルーリボン、増元さんのメール、伊藤兄妹 
電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3748

(一部抜粋)

 小学6年生のかいなさんからの手紙には「被害者とそのご家族の気持ちを思えば、鶴を折っていったい何になるんだろうとむなしくなることもありますが、鶴を受け取って下さった方たちから逆にがんばってとはげまされることが多く、本当に長い間苦しんでこられたんだなぁと、そのやさしさに胸が痛みます」と書かれてある。

 署名をして何になるだんろう、役に立つんだろうか、と思ってしまうこともあるかもしれない。しかし、私達に特効薬のような解決策はない。一人一人が出来ることをやっていくしかない。私たち大人は、北朝鮮の溢れるばかりの情報を手にして、いつしか評論家のようになってしまってはいないだろうか。

 『「ブルーリボンシール」を貼り、ブルーリボンを着ける人々の声が更に大きくなっていってくれることを祈ります。』という増元さんの言葉をもう一度噛みしめたい。

 折り鶴は、すべて正面から見て左向き。逆さにした折り紙のかぶとに収められ、ブルーリボンのシールが張ってある。そこには「いつでも北朝鮮が見えるように左向き」「北朝鮮が申し訳なかったとかぶとを脱いで被害者を帰してくれるように」という二人の願いが込められていた。折り鶴には「愛、感謝、調和」と書かれ、兜には「支え合い 生き合う」とひとつひとつに書かれている。

署名をありがとうございます
( 2005.3.17,木 )

 あおいのパパとママは、個人的に特定失踪者を救出するための署名を集めています。

 私たちと交流のある特定失踪者「大澤孝司さん」「山本美保さん」「藤田進さん」(他川口で拉致された田口八重子さんをはじめとする拉致された可能性のある方々)のご家族及び支援者の皆さんが、一生懸命に街頭で署名を集めていらっしゃいますので、少しでもお手伝いできればと、私たちも知り合いなどにお願いして署名をいただいて、少しずつブルーリボンと一緒にお渡ししています。(あおいのパパは時々街頭署名活動に参加しています)

 街頭で署名をしていただく、ということは簡単なことではありません。拉致問題に関心のある方々が集まる集会や講演会で署名を集めるのとは訳が違います。街頭署名などではほとんどの方が素通りで、チラシもそんなに受け取っていただけません。声をかけると嫌な顔をされるし、ひどい時は罵倒されることだってあります。優しく温かく応援してくださる方もいますけど、署名をしてくださらない方のほうが多いんです。そのような中で、署名をしてくださる皆さんには本当にありがたいなぁと思っています。

 私たちは今まで(と言ってもたった1年ですけど)拉致問題に関する色々なボランティア参加をしてきました。そしてその参加レポートの中で、常にいいことばかりではなく、嫌なこともある、ということも書いてきました。それについて批判もあるかもしれませんが、私たちはこれからも事実を書いていくつもりです。

 そういうわけで、私たちは多くの関心のある皆さんに「実際に活動しましょう」とは強く言えません。活動というかボランティアをするのは、それなりのつてやきっかけがなければできませんし、こころはあってもなかなか踏み出せない方々も大勢いらっしゃると思います。人それぞれ色々な都合や事情もありますし、ましてや地方にお住みの方々は難しいと思います。

 ご家族の皆さんがいつもおっしゃっていますように、「関心を持ち続ける」ということが大切だと思います。目に見えるような活動をしたから「偉い」わけでもなんでもありません。私たちの周りにも、ネット上ではわからない、人の嫌がるような地味で大変なボランティアをして支援をされていらっしゃる方々がいます。

 以前にakiさんがご自分のブログで指摘されていましたが、

* 新・ニッポンからの通信:いいかげんにせい!
http://aki1968.cocolog-nifty.com/news_from_japan/2005/03/post_6.html

(一部抜粋)
 救出運動に関わってきて、次第に嫌気がさした知り合いが何人かいる。拉致問題への関心が高まり、それをうまく利用する人が出てくる。その結果、純粋な気持ちで協力してきた人は引いてしまうのだろう。本来、左右に関係なく、運動とはそういうものなのか。

 ↑↑↑
 私たちもこれは肌で感じています。とても残念なことではありますけれど。知れば知るほど嫌気がさす、ということもあるのかもしれません。人が集まればどうしても色々なことが起きてしまうのは仕方のないことなのかもしれません。

 前にある掲示板に書いたことなんですけど、

 拉致問題に関心のある方々が、日中きちんと仕事をして、何かの話の中でこの問題の話をちょこっとでも話した時に、相手の方が「へぇ〜、そうなんだ〜」って、ちょっとでも頭に残ってくれたら、それがすごい活動だと思っています。(ごめんなさい、わかりにくいですよね・・・)私はそれができないので、自分にできることをこれからもしていこうと思っています。

 私はやはりそれぞれが「できる範囲内のこと」をしていくことが大事だと思います。

 話が飛んでしまいましたが、個人的に集めていますこの署名にご協力してくださった方々は、活動を通じて知り合いになったボランティアの皆さん、そして拉致問題関連サイトの管理人さんや投稿者の皆さんです。ボランティアのAさんは、署名用紙をコピーして知り合いの方々にも大勢声をかけて、協力してくださいました。

 また、あおいのパパの通っているスポーツクラブの友人の方々が、私たちの活動を知って、HPも時々見てくださっているとのことで、署名もご近所の方々に声をかけて、たくさん集めてくださいました。お店を経営されている方が「お客さんにもお願いするわ」とおっしゃってくださっています。皆さんに、拉致被害者の方々だけではなく特定失踪者の方々のこともお話しましたら、真剣に聞いてくれまして、あおいのパパに、テレビなどで拉致問題のことを見て「ひどい話よね」って話しかけてくださったそうです。

 署名にご協力してくださった皆さん、本当にいつもありがとうございます。感謝申し上げます。これからもお願いすることがあると思いますので、どうぞよろしくお願い致します。

 あおいのママはいつも署名用紙を持ち歩いておりますので、「署名してもいいよ」という方がいらっしゃいましたら、お声をかけていただけるとうれしいです。

*街頭署名活動が過去ログに載っています。
http://www.geocities.jp/aoinomama13/c.html
*2004年11月28日の日記
http://aoinomama.trycomp.net/diary2/diary/bn2004_11.html
*2005年2月12日の日記
http://aoinomama.trycomp.net/diary2/diary/bn2005_02.html

3/13 TBS「報道特集」にて(2)
( 2005.3.16,水 )
*写真は2004年7月4日、増元さんの有楽町マリオン前での街宣演説に応援に来られた特定失踪者のご家族の皆さんです。「大澤孝司さん」の二人のお兄さん(昭一さん・茂樹さん)、「藤田進さん」の弟さん(隆司さん)、「斉藤裕さん」のお姉さん、「新木章さん」の妹さん、「佐々木悦子さん」のお母さんが参加されていました。

引き続き、ビデオに録画したものから文字起こしをしました。一部をご紹介いたします。


《特定失踪者の家族 『時間がない』》

続き

(ナレーター)
 それだけではありません。戦いはもう1つあります。2ヶ月にいっぺんくらいのペースで開かれている調査会の会見。

(荒木和博さん)
 「本日発表するのは18名の方でございまして、このうち13人がこれまで非公開だった方が公開に切り替えたケースでございます。」(2005年2月25日)

(ナレーター)
 増え続ける特定失踪者。その数はおよそ430人となり、このうち231人が公開に踏み切っています。拉致に結びつくような情報も増えていますが、日本政府はこれまでの10件15人以外に、新たな拉致被害者としての認定をしていません。特定失踪者問題調査会と家族はこの現状を変えようと動いています。

(真鍋貞樹さん)
 「支援法に基づく拉致被害者としての認定を求める訴訟ということになります。」

(ナレーター)
 特定失踪者の家族が政府に対し、拉致被害者として認定するよう求める訴訟を起こすというのです。その家族を訪ねました。

(母・古川朗子さん)
 「おはようございます。ご苦労さまでございます。」(深々と頭を下げる・千葉市)

(ナレーター)
 古川朗子(さえこ)さん、88歳。特定失踪者「古川了子(のりこ)さん」の母親です。千葉県市原市に住んでいた古川了子さんは、1973年の7月7日、美容院に行ってから母親の朗子さんと買い物に行く約束をしていました。しかし了子さんは美容院には現れなかったといいます。

(母・古川朗子さん)
 「美容院の先生から電話があって、『のりちゃんからこういう連絡を受けましたから』って言って『今日は行かれなくなった。他に用事ができて行かれなくなったから』という電話をよこしましたのでね。それじゃあしょうがない。会うことないと思って、いずれお友だちと遊びに行くんだろうと思ってたんですけど、それが夕方になっても夜になっても帰って来ないんですよね。」

(ナレーター)
 それ以来32年間、了子さんの行方はわからないままです。

(姉・竹下珠路さん)
 「了子に関しての物はこれだけになりましたけどね。」

(ナレーター)
 了子さんが着ていた服などを持って来たのは姉の竹下珠路さん(65)です。

(古川朗子さん)
 「これはね、一番しまいに着ていた服なんです。」

(姉・竹下珠路さん)
 「いなくなくなった直前に、好んで着ていた服です。」

(ナレーター)
 1973年の失踪当時を思わせるチェックのジャケット。

(姉・竹下珠路さん)
 「これが(失踪)前の日まで通勤で使っていたバッグで、ここの中に財布は入ってなかったんですけども、こういう針(裁縫)のセットとか、櫛(くし)だとか・・・。」

(ナレーター)
 失踪前日に、会社から支給されたボーナスもそのまま残されていました。さらにこんなものまで・・・。

(姉・竹下珠路さん)
 「『へその緒』が取ってありました。」

(ナレーター)
 『へその緒』と『髪の毛』。了子さん本人のDNA情報となります。身の回りのものをすべて残しての失踪。いつも明るく、活動的だったという了子さんの生存を信じて、家族は捜しまわりましたが、手がかりはつかめません。

(母・古川朗子さん)
 「あの、こういうようなお話(失踪)があると、人によってはもうどっかで死んだものと思って、お葬式まで出しちゃう人もいるんですってね。でも私は全然そんな気にはなれないから(声を詰まらせながら)、きっと帰って来るに違いない、きっとどっかから、いなくなった時と同じように、ひょこんと出てくるかもしれない。それだけ信じていましたからね。」

(ナレーター)
 2002年に新たな情報がもたらされました。元北朝鮮工作員で、横田めぐみさんを目撃したという安明進氏が、平壌の病院で「古川了子さんに極めて似ている女性を見た」というのです。去年の1月、家族は千葉県警に告発状を提出。さらに同級生が中心となり、拉致認定を求める14万8千人の署名を集めました。これで政府が動かなければ、来月にも提訴するつもりです。

*古川了子さんを救う会
http://www012.upp.so-net.ne.jp/Furukawa-Noriko/

(母・古川朗子さん)
 「こっちから一生懸命『拉致認定してくれ』って、何べんも言ってるらしいですけれども、政府の方が、それが『うん』と言わないんですよね。だから拉致被害者っていう仲間に入れていただけないんです、古川了子は・・・。どういう訳なのかしら?って思って、こっちが聞きたいくらいですよ。何故そうやってほったらかしにしておくのかしら?と思いますよねぇ。」

(ナレーター)
 有力な証言が次々と出てきているのに、10件15人以外に拉致認定がされないのは何故か?特定失踪者の家族の間には政府への不信感が芽生え始めています。


(荒木和博さん)
 「えー、今度のポスター、これで5代目のポスターになるんですが、『拉致被害者・特定失踪者ポスター』というふうにいたしまして・・・」

(ナレーター)
 特定失踪者問題調査会が新たに作ったポスター。政府が認定している拉致被害者も初めて加えました。その理由は・・・。

(荒木和博さん)
 「政府が認定しようが認定しまいが、拉致被害者は拉致被害者ですから。この中に入っている写真以外の方だって当然いるわけで、それを助けるというのは、その拉致をされている人を助けるということで、政府に認定されたから助けるのではない、ということをですね、やはり1人でも多くの方に理解していただきたいと。」

(ナレーター)
 こう話す荒木代表。これまでに集めた情報から「まだ明らかになっていない拉致被害者が大勢いる」という確信を抱いています。

(荒木和博さん)
 「どう少なくみても『100人以上はやられているだろう』と。おそらくは、それよりはるかに多くの数の人が向こう(北朝鮮)へ、自分の意思に反して連れて行かれたか、あるいは騙されて向こう(北朝鮮)に入って出られなくなったと。ともかく今やはり国民の前に、拉致被害者というのがこんな数ではないんだ、ということをわかってもらうためには、やはり政府が責任を持って、その認定をしていくということが絶対に必要だと思います。」

(ナレーター)
 特定失踪者問題調査会では、拉致問題を調べるために「政府が専門の機関を設けるべきだ」と主張しています。

(中略)

(司会者)
 突然いなくなってしまった子どもに「何とか生きて会いたい」、そんな気持ちを支えに30年余りも待ち続けてきたお父さんやお母さんたち。

(中略)

 今回「古川了子さん」の家族は、やむにやまれず国を相手に訴訟に踏み切ったわけですが、今後はこうした提訴のケースもさらに出てくるのかもしれません。

*特定失踪者問題調査会
http://www.chosa-kai.jp/
*拉致の疑いが濃厚とされる特定失踪者のリスト  電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/tokutei2.php

3/13 TBS「報道特集」にて(1)
( 2005.3.15,火 )

*写真は2004年7月4日、増元さんの有楽町マリオン前での街宣演説に応援に来られた特定失踪者の「大澤孝司さん」の二人のお兄さん(昭一さん・茂樹さん)です。街頭署名活動を終えて応援に駆けつけていらっしゃいました。


 数日前に特定失踪者「大澤孝司さん」のお兄さんの大澤茂樹さんより、このTBS「報道特集」の取材を受け、それが放映されたとの連絡がありました。再放送を見ることができましたので、ビデオに録画をしたものから文字起こしをしました。一部をご紹介いたします。


《特定失踪者の家族 『時間がない』》

(司会者)
 さて、続いては「拉致問題」です。去年の暮れに、横田めぐみさんの遺骨とされるものが「別人のものである」と日本政府が発表して以来、北朝鮮はこの問題では強硬な姿勢を取り続けていまして、未だに進展はありません。横田さんご夫妻のお歳を考えれば、どれ程怒りと無念で燃えていらっしゃるか、容易に察することができるのですが、拉致の可能性が否定できないという特定失踪者の家族の皆さんも、年々高齢化が進んでおりまして、政府による拉致認定もないまま亡くなっていく方もいらっしゃいます。このままでは例え拉致の事実があったとしても、北朝鮮の引き延ばしによって時間切れになってしまう、そんなギリギリの状況で暮らすご家族の皆さんを取材しました。

(中略)

(ナレーター)
 特定失踪者「生島孝子さん」の母・生島うらさんの葬儀(2/11)に同じ立場の家族が参列していました。1974年に新潟佐渡で姿を消した特定失踪者「大澤孝司さん」の兄茂樹さん(63)です。

(次兄・大澤茂樹さん)
 「私のことのように思っております。というのは、私の親父も今年で96歳になって、もう先がありませんので、一刻も早く救出を願ってですね、日本政府の方に、1日も早く救出をやってもらいたいと思って、今日駆けつけました。」

(中略)

(ナレーター)
 雪に覆われた田畑、そして山々。ここ新潟県巻町にも特定失踪者の家族が住んでいます。

(次兄・大澤茂樹さん)
 「私も親父が元気なうちにね、せめて弟との再会を果たしてやりたくてですね・・・。」

(ナレーター)
 生島うらさんの葬儀にも駆けつけた大澤茂樹さん。特定失踪者「大澤孝司さん」の兄です。この日は自宅がある横浜から、父親が住んでいる実家へと向っていました。

 新潟県の職員として佐渡の農地事務所に働いていた「大澤孝司さん」。1974年2月、夕食をとった焼肉店を出た後、姿を消してしまいました。曽我ひとみさんが拉致される4年前、同じ佐渡で起こった失踪事件。現金や通帳などは寮に残されたままで、失踪する理由も見あたりませんでした。

 巻町ではもう1人の兄、昭一さん(69)が待っていました。地元の霊山、弥彦山をバックにこんな看板を立てた人物です。

『今年こそ 拉致問題の全面解決と 日本人全員の早期救出を』

(長兄・大澤昭一さん)
 「この看板を一刻も早く取れればいいなぁと思っています。」

(ナレーター)
 看板から少し離れたところにある孝司さんの自宅。その入口の脇に新聞を読んでいるお年寄りがいました。毎日ここに座りながら息子の帰りを待っているのです。福一郎さんは現在95歳。足は多少弱っていますが元気だといいます。

(父・大澤福一郎さん)
 「孝司の父親でございます。いつもお世話になりましてありがとうございます。」(取材者に向って深々と頭を下げる)

(ナレーター)
 私たちは孝司さんがいなくなった当時のことを聞きました。

(父・大澤福一郎さん)
 「何が(失踪の)原因なのか、私と家内と話してもわからんかったし・・・。」

(取材者)
 「北朝鮮の拉致とかそういったことは?」

(父・大澤福一郎さん)
 「全然なかったです。ただ『神隠し』ね。これ以上捜さんと出ねえと・・・。まぁ、『神隠し』になって、わからん状態になるかもしんねえと、警察署長の話を聞きましたね。」

(ナレーター)
 失踪直前には縁談も考えられていたという孝司さん。福一郎さんは息子のために、巻町に宅地を買いました。今でもそのことが頭から離れません。

(取材者)
 「孝司さんに会いたいですか?」

(父・大澤福一郎さん)
 「・・・、うん、やっぱしこの写真(部屋に飾られている)ばっか見てても情はわきませんし。いっぺん(顔を)見たいという気持ちがありますね。(孝司さんのために買った)宅地を見る時、感慨無量になりますね。」

(長兄・大澤昭一さん)
 「孝司ー!町長さんがのうー、お前が丈夫に帰って来るように、役所の屋上に横断幕を張ってくれたよー!」

『北朝鮮による拉致疑惑の「大澤孝司さん」の究明・救出にご支援を』

(ナレーター)
 2002年の12月、地元巻町役所に掲げられた横断幕。昭一さんはこう叫びました。

(長兄・大澤昭一さん)
 「もうちょっと頑張って、親父の生きているうちに、日本中の人たちが待っててくれるから、早く帰ってくれやー!」

(ナレーター)
 同級生が「大澤孝司さんと再会を果たす会」を立ち上げ、署名活動を行うなど地元では支援の輪が広がりましたが、拉致問題自体はなかなか進展しません。孝司さんの父親福一郎さんはこう訴えます。

(父・大澤福一郎さん)
 「孝司が帰って来るまでは、それは生きていれればね・・・。まぁ、この拉致問題がどうなるんだかねぇ。(涙ながらに)会いたい、会いたいですねぇ、一刻も早く・・・。顔を見てえの、自分の願いですね・・・。」

 「この問題は、お前さんたちのご尽力にお願いして、誠に申し訳ありません。」(取材者に向って、頭を深々と下げる)

(ナレーター)
 インタビューの後、福一郎さんはまた元の部屋に戻って、新聞を読み始めました。頭に刺激を与えるため、できるだけ通りに面した部屋にいるのだといいます。時間との闘いが家族に重くのしかかっています。

続く


* 大澤孝司さんと再会を果たす会
http://www.ric.hi-ho.ne.jp/takashi-o/
*拉致問題解決を求める横断幕 新潟県  電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=2558
* 大澤家の願いのこもった看板  電脳補完録さんより
http://trycomp.oc.to/jokyo/12.html
*4/4 大宮講演会 「大澤孝司さん」のお兄さん
http://aoinomama.trycomp.net/col3.cgi?mode=dsp&num=80&no=16
*1/15 第9回藤沢市民集会 大澤 茂樹さん
http://aoinomama.trycomp.net/col3.cgi?mode=dsp&num=&no=112

今日はホワイトデー
( 2005.3.14,月 )
 2月14日に、あおいのパパにバレンタインチョコレートをプレゼントしてくださった皆さん、本当にありがとうございました!二人でおいしくいただきました。

 今日はホワイトデー。久しぶりにクッキーを作ってみました。

 写真は出来上がった「キャラメルチョコチップクッキー」と「ごまクッキー」です。何人かで分けますので、ちょっぴりになってしまい、本当に申し訳ございません。気持ちだけ受け取ってください。

 これからもどうぞよろしくお付き合いください。


★ソフトクッキー★

(材料)
・薄力粉・・・・・110g
・バター・・・・・90g
・粉砂糖・・・・・70g
・卵黄・・・・・・Mサイズ2個
・チョコチップ、ごま、レーズン、コーンフレーク、くるみなどの木の実、ココナッツなど好みで適量

(作り方)
@薄力粉はふるっておく。
Aバターは電子レンジなどで、少し柔らかくしておく。ボールに入れて泡だて器でクリーム状にする。
B粉砂糖を2〜3回に分けて入れて、白っぽくなるまでまぜる。
C卵黄を1個ずつ入れて混ぜ合わせる。
D薄力粉を3分の1の量加えて、泡だて器でよくかき混ぜる。
E残りの薄力粉を入れ混ぜる。
F中に入れるチョコチップなどをここで混ぜる。(たねをいくつかに分けて混ぜると、色んな種類のクッキーができる)
Gオーブンは180度に温めておく。鉄板に、クッキーがくっ付かないようにクッキー用の紙かホイルを引いて、クッキーのたねをスプーンなどですくって形どり、好みの大きさで並べる。
H180度のオーブンで15〜20分焼く。(焼き具合は好みで調節する)
I焼き上がったら、網の上でしばらく冷ます。冷めたら出来上がりです!多少の形の崩れなんて気にしな〜い!!

結婚記念日
( 2005.3.11,金 )
 今日は私たち夫婦の結婚記念日です。平成○年に結婚しました。

 パパは一人息子、ママは三人姉妹の長女。どちらの実家も自営業で、跡取り息子と娘。お互い東京で一人暮らしの社会人だったけど、いずれは地元に戻って家を継ごうと考えていました。

 婚約後、ちょっとした行き違いからパパの両親に結婚を反対されました。ママの両親も思うところはあったけど、「好き合っているのに、反対したら子どもを失うから」と許してくれました。

 パパの両親はすでに亡くなってしまいましたが、最後まで「許す」とは言ってくれませんでした。パパは「親か私か」の選択を迫られ、結局ママを選んだので、寂しい思いをさせてしまいました。ごめんね。

 ○○年前の今日、当時住んでいた神奈川県川崎市の高津区役所に、二人で駆け込んで婚姻届を提出しました。「受理されました。これでお二人は正式な夫婦になりました」と役所の方に言われ、「こんなものなのか」と「たったこれだけで夫婦になれるんだ」と二人で驚いた記憶があります。

 パパが小さな花束とケーキを買ってきてくれました。パパ、ありがとう。このケーキを食べたら、いつものようにダンスを踊りましょう。そしてこれからもずっと変わらぬ気持ちで過ごしていきたいですね。乾杯!


*結婚してすぐ、「レタスクラブ」という雑誌の「Mail Box」というページに、初めて投稿したものが載りました。懐かしい思い出です。紹介します。(謝礼に三千円いただきました)

当時共働きをしていましたので、家事は手抜きだらけでした・・・。今だったらDVって言われるかな・・・。


 『23歳の主婦です。主人とは2年前に知り合って、1年間一緒に住み、つい1ヶ月前に式を挙げました。

 彼は4歳年上ですが、私と同じくらいの年に見えます。そして、顔を見ただけで優しい人だとわかります。

 毎晩、寝言を言ってけっとばしても、「変な顔」「短足」「バカじゃないの」などなど、ひどいことを言っても、決して私のことを悪く言ったりしません。

 ○キロも太った私に「太ったね」なんて言いません。「疲れたから、夕食作るのヤメた」と言っても怒りません。

 だから私、どうしても怒らせてみたくて、あの手この手で彼をいじめています。最近は、顔をひっぱたいたりしてます。で、聞いたんです。「私のどこが好きなの?」って。そしたら、「優しくて思いやりのあるところ」。

 ごめんね、と思いつつ、今晩はほか弁にしようと思う私です。』

2/19「日米韓は拉致問題にどう協力できるか」国際集会レポートのご紹介
( 2005.3.9,水 )
 ヤフー掲示板にていつもお世話になっておりますハンドルネーム「sadamuyufuinさん」のレポートです。ご本人さまの了承を得まして転載させていただきました。集会・講演会レポート集にも掲載しております。sadamuyufuinさん、お疲れさま、そして本当にありがとうございました。

《先日の国際集会 私の報告》 
ヤフー掲示板 小泉首相の訪朝と課題について No. 181909

1. 参加者などに関して
 
(1)小雨の降りしきる中、12時18分に会場に到着しました。
 
(2)受付で整理券を渡されました。ちなみに私は73番でした。
 
(3)入場開始は13時とのことでした。が、エントランスが一杯になったせいか、実際には整理券の番号順に12時50分に会場に誘導されました。
 
(4)定員500人とのことでしたが、実際には椅子は600脚をかなり越えて準備されていました。開始して暫らく経っても、壇上に向って右側の方の席が80席程空席がありました。
 
(5)煙草休憩の為途中で抜け出した際に受付で聞いたら、次の整理券は429番ですとのことでしたが、参加者は、最終的には約600人の参加者数でした。雨の中、皆さんの熱意でむんむんでした。

2. 集会の内容
 
(1)あおいのママさん始め、幾人かの皆さんが録音したものを文章にして、既投稿してご紹介済ですので省略します。

*2/19 国際集会 スザンヌ・ショルティさん
http://aoinomama.trycomp.net/col3.cgi?mode=dsp&num=&no=119
*2/19 国際集会 横田 早紀江さん
http://aoinomama.trycomp.net/col3.cgi?mode=dsp&num=&no=120
*2/19 国際集会 飯塚 繁雄さん
http://aoinomama.trycomp.net/col3.cgi?mode=dsp&num=&no=122
*2/19 国際集会 安 明進さん
http://aoinomama.trycomp.net/col3.cgi?mode=dsp&num=&no=124

3. 報道
 
(1)在京テレビ局は全局来ており、カメラを廻していました。
 
(2)新聞社のカメラマンも数社来ており、シャッターを押していました。
 
(3)私の座った席(=壇上中央に向ってやや右の前から7列目)の1列前の左斜め前の席では、韓国の新聞社? 雑誌社? の女性(記者か?)がハングル語で必死にメモを取っていました。
 
(4)私の座った席の1列後ろの席でテープレコーダーを廻している女性の方がいらっしゃいました。テープレコーダーを廻している人は他にも数名いました。

4. 良からぬ輩の紛れ込み
 
 受付付近にいた或る方が、朝鮮総連の回し者らしき人物3人が来場して紛れ込もうとしているのに気付いて、その旨話してお帰り願ったら、そのままUターンして引き返したようでした。

5. パネリスト

・スザンヌ・ショルティさん
「米国の北朝鮮人権法と拉致問題」(ディフェンス・フォーラム理事長、北朝鮮自由連合副議長)
・金 文洙さん
「韓国における拉致問題」(韓国国会議員)
・趙 甲済さん
「韓半島情勢と拉致問題」(月刊朝鮮発行人)
・西岡 力さん
「制裁発動と国際連帯が救出の道」(救う会常任副会長)

6. 安さん

(1)私が2回目の煙草タイムのため、受付の右横の応接椅子に座っていたら、たまたま、安さんが来場しました。昨日まで風邪で熱が出て、寝ていたが、どうしても出席しなければとの義務感からでしょうか・・、起きて来たと仰っていました。まだ熱っぽい様子でした。薬で抑えていたように感じられました。

(2)既投稿にも在りましたが、安さんは「私は北の工作員でした。この経験を、今度は(逆に)北に対して行える日がいつか来ることを願っています。」という趣旨の力強い言葉がありました。会場は、その言葉に一段と大きな大喝采で応えました。

7.私も、少しも変らぬ強い意志を持ち続けて拉致被害者救出に、自分が出来る限りの努力をしようと、改めて決意しました。

*2/19 国際集会
http://aoinomama.trycomp.net/col3.cgi?mode=dsp&num=&no=118

デジタルビデオカメラ
( 2005.3.8,火 )

私は今感情的になっているのだろう
明日9日はわが子の月命日だから

9日で1歳6ヶ月になる
生きていたらどんなふうに成長していたのだろう

わが子の成長を撮るために買った
デジタルビデオカメラが
今では集会講演会街頭演説などの撮影と文字化レポートに活躍している

妊娠6ヶ月のときにまだ早いのに買ったもので
あおいラインが入っている

初めて使ったのは2004年1月12日の「茨城県民集会」(水戸)
私はあの日から文字化を始めた

現在もっと小さくて良い機能のものがあると思う
何もビデオカメラで撮らなくても
ボイスレコーダーを買って使った方が楽なのかもしれない

でもやはり私はこのビデオカメラを使いたい
このビデオカメラを使おうと決心するのに数ヶ月かかった
悲しみのあまりこのまま使わずに
封印してしまおうかと思ったこともある

しかし私は使い始めた
それはこのビデオカメラで撮って文字化をすることで
親子一緒にご家族への支援ができると思ったから
多くの方に講演内容を知ってもらえると思ったから

この作業やお手伝いをしていて何度もくじけそうになったけど
その度に「ママ 一緒にがんばろうよ」って
わが子がそう言って励ましてくれているような気がして
今もこれからも私は続けていくと思う

私がわが子の存在に気づいたのは拉致問題の集会で初めて参加した
2003年5月の第5回国民大集会(有楽町国際フォーラム)だった
あの日のことは忘れられない

わが子に「あおい」と名づけようと思った
そしてこの子にとって恥ずかしくないような親でありたいと思った

今まで「自己満足」だとか「偽善」「資格がない」と
言われたこともあったけど
そのたびに悲しい思いをしたけれど
でもやはり1人でも頼りにしてくれる人がいるかぎり
支えてくれる人がいるかぎり
これからも自分を信じていこうと思う
わが子がいつも守ってくれるのがわかるから

このデジタルビデオカメラでこれからも撮影して
文字化をしていこうと思う

*プロフィール
http://aoinomama.trycomp.net/profile/index.html
*『誕生死』
http://homepage3.nifty.com/angel-book/

2/24 「よど号妻」第三回公判 傍聴記録 (4)
( 2005.3.7,月 )
*写真は、東京地方裁判所正面門外から撮ったものです。入口付近に報道関係者が大勢いました。

 あおいのママのメモから、裁判の様子を少しずつ再現しています。聞きもれやカン違いなどもあるかもしれません。後ほど加筆・訂正する場合もあります。どうぞ皆さまご了承くださいね。

 集会・講演会レポートにもその都度載せていく予定です。

◆検察官の名前◆
・石井 隆
・遠藤 伸子
・大塚 雄毅

◆検察官より◆
・名前などの敬称を省略します。
・「よど号グループ」と質問します。
・西暦を使います。

続き

《「よど号犯 田中義三」との出会い 結婚について》

【検察官】
 あなたは前回「夫の田中義三とは、1977年8月にユーゴスラビアのべオグラード市内の食堂で知り合った」と証言していますが、この食堂というのはどういった店だったのでしょうか?

【田中協子被告】
・ここは魚料理のおいしいお店で、私はとても好きで、よく行っていました。

【検察官】
 若林(黒田)佐喜子を知っていますよね?高沢晧司さんの「宿命」という本に、若林佐喜子も「ヨーロッパのある学生食堂で夫と知り合った」と書いてありますが、あなたと田中義三との出会いに似ていますね。

【田中協子被告】
・そうですか?若林さんたちの出会いについては、本人たちに具体的に聞いていません。

・高沢晧司さんの「宿命」という本は読んだことがありますけど、そういうことが載っていたかなどは記憶がありません。

【検察官】
 偶然の一致ですか?そんなに偶然がありますかね?

【弁護士】
 高沢晧司さんの「宿命」という本が「真実である」という前提での質問はいかがなものでしょうか?

【検察官】
 関連のあることですので。あなたはこの「宿命」の著者の高沢晧司さんに、北朝鮮で会いましたか?

【田中協子被告】
・はい、お会いしました。

【検察官】
 高沢晧司さんに、田中義三との出会いのエピソードを話しましたか?

【田中協子被告】
・はい、お話しました。

【検察官】
 どういうふうに答えましたか?

【田中協子被告】
・前回の裁判でお話した通りです。「1977年8月に東欧で出会った」と答えました。

【検察官】
 当時、高沢晧司さんに「北朝鮮に行くことを考えた」と答えたのではありませんか?

【田中協子被告】
・覚えていません。

【検察官】
 田中義三に会う前にすでに「北朝鮮に行きたい」という気持ちがあったのではありませんか?

【田中協子被告】
・それはなかったと思います。だって、北朝鮮には行けませんから。だから考えたこともありませんでした。

【検察官】
 しかし、本当は北朝鮮に行きたかったのではありませんか?

【田中協子被告】
・それは違います。考えてもいませんでした。

【検察官】
 あなたは「1978年5月、北朝鮮で結婚式を挙げた」と言っていましたが、八尾恵の証言によれば、「ほかのメンバーも全員が1977年5月初旬までに結婚した」とあります。本当は田中義三との結婚は1977年5月だったのではありませんか?

【田中協子被告】
・いいえ、ちがいます。私は1978年5月に結婚しました。

【検察官】
 八尾恵の証言と考え合わせると、やはり日本→香港→スイス→ユーゴスラビアと行っている、というのが私には理解できませんね。実は日本→香港→マカオ→北朝鮮に行ったのではないですか?

【田中協子被告】
・いいえ、違います。私はユーゴスラビアに行きました。間違いありません。

続く

*東京地裁で2002年3月12日に開かれた「赤木恵美子被告」の旅券法違反事件の公判で、「八尾恵証人」が証言した要旨などはこちらに載っています。
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3484

2/24 「よど号妻」第三回公判 傍聴記録 (3)
2005.3.6,日
*写真は、東京地方裁判所正面門外から撮ったものです。入口付近に報道関係者が大勢いました。

あおいのママのメモから、裁判の様子を少しずつ再現しています。聞きもれやカン違いなどもあるかもしれません。後ほど加筆・訂正する場合もあります。どうぞ皆さまご了承くださいね。

集会・講演会レポートにもその都度載せていく予定です。

◆検察官より◆
・名前などの敬称を省略します。
・「よど号グループ」と質問します。
・西暦を使います。

◆検察官の名前◆
・石井 隆
・遠藤 伸子
・大塚 雄毅

続き

《ユーゴスラビアでの生活》

【検察官】
 あなたはスイスのチューリッヒで1ヶ月間過ごした後、1977年5月から78年3月までの10ヶ月間、ユーゴスラビアに滞在していますね。ここでの生活はどういうふうだったのでしょうか?

【田中協子被告】
・私は個人教授を受けていました。食器洗いなどのアルバイトをして生活費を稼ぎながら、あちこち見学していました。

・普段英語を使っていました。

【検察官】
 アルバイトを紹介したのは誰ですか?

【田中協子被告】
・現地で知り合った方だったと思います。どういう方だったのかはまったく覚えていません。

【検察官】
 当時、ユーゴスラビアは社会主義国でしたね。そこで知り合った人にアルバイトを紹介されたんですか?しかも覚えていない。あなたは観光ビザで入国したのではないのですか?

【田中協子被告】
・はい・・・。観光ビザで入国しましたので、3ヶ月?か6ヶ月?の滞在ができたと思います。

【検察官】
 当時3ヶ月だったはずです。ということは、あなたは10ヶ月間滞在して、しかもアルバイトをしながら、労働しながら、不法滞在していたことになりますね。期限が切れていたことを、気に留めなかったのですか?

【田中協子被告】
・それはあまり気にならなかったです。

【検察官】
 ユーゴスラビアでは、不法滞在をしていて働けるのですか?チェックはなかったのですか?

【田中協子被告】
・アルバイト先は知人が紹介してくれました。

・チェックなどはありませんでした。ですから、私は堂々と生活をしていました。また、それに関してあまり心配はしていませんでした。

【検察官】
 あなたはユーゴスラビアに入国する前に滞在したスイスで「生活資金をだいぶ使ってしまった」と言っていました。ユーゴスラビアで「アルバイトをしなければ生活できない」のは前もってわかっていたはずですね?どうして労働ビザを取らなかったのですか?

【田中協子被告】
・(しばらく沈黙)はい、取りませんでした。

・観光ビザで、3ヶ月間(90日間)のところを10ヶ月間ユーゴスラビアに滞在していました。(答えになっていませんでした)

【検察官】
 ところで、あなたは1977年5月にユーゴスラビアに入国したわけですが、その1ヵ月後の1977年6月に、あなたの兄(次兄)の「水谷しんじ」が日本で結婚していますね。知っていましたか?

【田中協子被告】
・まったく知りませんでした。後で次兄が結婚したことを知りました。「いついつ結婚する」とかいうことを、本人から聞いていませんでしたから。

【検察官】
 知らなかったんですか?あなたが日本を出国したのは1977年3月ですよ。たった3ヶ月後に次兄が結婚しているのに、何故知らなかったんですか?兄妹なんですから、当時結婚相手がいることぐらい知っているのが当たり前ではないですか?

【田中協子被告】
・その当時のことはよく覚えていません。

【検察官】
 次兄の結婚を知っていたら、式に参列しましたか?

【田中協子被告】
・しなかったと思います。私には留学がありますから。

【検察官】
 兄妹なのに?何故ですか?普通は参加するのではないですか?

【田中協子被告】
・それはひんぱんに日本に帰れなかったからです。費用だってかかります。次兄の結婚式があると知っていたとしても、私は帰らなかったと思います。

続く

2/24 「よど号妻」第三回公判 傍聴記録 (2)
2005.3.5,土
*写真は、東京地方裁判所正面門外から撮ったものです。入口付近に報道関係者が大勢いました。

 あおいのママのメモから、裁判の様子を少しずつ再現しています。聞きもれやカン違いなどもあるかもしれません。後ほど加筆・訂正する場合もあります。どうぞ皆さまご了承くださいね。

 集会・講演会レポートにもその都度載せていく予定です。

◆検察官の名前◆
・石井 隆
・遠藤 伸子
・大塚 雄毅

◆検察官より◆
・名前などの敬称を省略します。
・「よど号グループ」と質問します。
・西暦を使います。


続き

《日本を出国する準備》

【検察官】
 あなたは1977年3月29日に日本を出国しましたね。ご両親には「ブルガリアへ行く」と言ったのですか?

【田中協子被告】
・はい、そう言いました。

【検察官】
 しかし実際はスイスに行きましたね?1ヶ月くらい住んでいたんですよね?家族に何故「スイスへ行く」と説明しなかったのですか?

【田中協子被告】
・(しばらく沈黙)私は最終的に「ブルガリアに行く」つもりでした。ですから「スイスへ行く」と言わなかったのかもしれません。

・この時のことはよく覚えていませんが、もしかしたら家族に「スイスに行く」と言ったのかもしれません。よく覚えていません。

【検察官】
 あなたは日本を出国することをいつ頃から具体的に考えていたのですか?

【田中協子被告】
・具体的に決めたのは、大学2年生の後半になってからです。1976年の冬くらいから、だいたい日本を出国する4ヶ月前くらい前から考えていました。

【検察官】
 4ヶ月前なんですか?4ヶ月で留学する資金は貯まるのですか?どうやって資金を集めたのですか?

【田中協子被告】
・(しばらく沈黙)考えたのはその時(4ヶ月前)で・・・。1977年3月16日に旅券を取得しました。

・資金は家族からの援助と、私がアルバイトをして貯めたものから出しました。

【検察官】
 あなたはたった4ヶ月前から「ブルガリアに行く」準備をしていたのに、急いで旅券を取得したのは何故ですか?

【田中協子被告】
・(しばらく沈黙)決心したのが3月です・・・。(答えになっていませんでした)

【検察官】
 1977年当時、一般の方が海外にそう簡単に行ける時代じゃなかったですよね?それなのにあなたは旅券を取っています。急に申請したのはどうしてですか?普通の感覚ですと、急に思い立って行動するというのは心配になりますよね?

【田中協子被告】
・私はその時、心配に思っていませんでした。

【検察官】
 日本を出国する直前になって旅券を取得するというのは、私は不自然のように思うのですが。急に出国しなければいけなくなったのではありませんか?

【田中協子被告】
・それはありません。もともと、私が大学3年生になる前に東欧へ行きたかったんですから。

【検察官】
 それでは、あなたは旅券取得の時の申請書に何て書いたか覚えていますか?

【田中協子被告】
・覚えていません・・・。スイスかブルガリアではなかったのでしょうか・・・。

【検察官】
 実際には、その時あなたは「香港」と書いていましたよ。何故「スイス」「ブルガリア」と思ったのですか?

【田中協子被告】
・(しばらく沈黙)覚えていません・・・。

【検察官】
 あなたが「覚えていない」と答えたのは、まず「香港に行った」からではありませんか?このことを明らかにできない事情があったのではありませんか?

【田中協子被告】
・そんなことはありません。(答えになっていませんでいた)

【検察官】
 それでは、あなたのご両親は、あなたのこの行動、「ブルガリア」もしくは「スイス」に行くことをどういうふうに思っていたのですか?また、兄姉はどうだったんですか?

【田中協子被告】
・両親はとにかく反対していました。「とんでもない」と。

・兄と姉は、私が「東欧に留学したい」と言っていたのを知っていました。どちらも「若い頃はいいんじゃないのか」と賛成してくれました。

続く

2/24 「よど号妻」第三回公判 傍聴記録 (1)
( 2005.3.4,金 )
*写真は、東京地方裁判所正面門外から撮ったものです。入口付近に報道関係者が大勢いました。

 あおいのママのメモから、裁判の様子を少しずつ再現したいと思います。終了するまでかなり時間がかかると思います。また、聞きもれやカン違いなどもあるかもしれません。後ほど加筆・訂正する場合もあります。どうぞ皆さまご了承くださいね。

 集会・講演会レポートにもその都度載せていく予定です。

 また、あくまで田中協子被告は「旅券を返納しなかったのは事実だが、命令は根拠がなく不当」と無罪を主張しています。罪を逃れるために、自分に都合のいいように証言している可能性が高いと思います。

*よど号妻逮捕直前、拉致疑惑に直撃 電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3193
*返納命令は不当と無罪主張 よど号メンバーの妻 電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3484
*よど号犯妻裁判 電脳補完録さんより
http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3667


《検察官より》
・名前などの敬称を省略します。
・「よど号グループ」と質問します。
・西暦を使います。


《大学時代について》

【検察官】
 あなたは前回このように言いました。

『1977年、私は愛知大学に入学しました。サークルは「朝鮮文化研究会」に入りました。そこでは南北朝鮮の関係史、社会主義研究を勉強しました。このサークルに入ったきっかけは、自分の兄弟がこのサークルに入っていて、遊びに行っているうちにずるずると入っていってしまったという感じです。』

 このサークルに入っていた兄姉の名前と、活動内容などを教えてください。

【田中協子被告】
・入っていたのは次兄の「水谷しんじ」と姉の「水谷めいこ」です。私が愛知大学に入学した時には、兄も姉もすでに卒業していましたので、どのような活動をしていたのか知りません。

・長兄は「水谷誠文」(せいぶん)といいます。この兄は「朝鮮文化研究会」に入っていませんでした。

・「朝鮮文化研究会」主催のデモなどは一切していません。

【検察官】
 兄姉で、より熱心に活動していたのは誰ですか?また、南北朝鮮の関係史、社会主義研究などの話を聞きましたか?

【田中協子被告】
・どちらがより熱心だったのかそれは知りません。

・社会主義研究などの話は聞いたことがあります。南が軍事政権で民主化を弾圧した、という話も聞きました。

・北朝鮮の芸術映画がサークルで上映されていましたので、それは観ました。

【検察官】
 そういった兄姉から影響はかなり受けましたか?

【田中協子被告】
・影響、それもあるかもしれません。当時の時代を考えますと。私は中学2年生の時から、そういったことに興味を持っていましたから。

【検察官】
大学時代に「親子劇場」というところによく行っていましたよね?それはどういう内容のものですか?

【田中協子被告】
・それは劇団で、演劇内容は「絵本の世界」です。大人と子どもが演じていました。

【検察官】
 あなたはこの頃、アルバイトをしていましたね?どういうアルバイトをしていましたか?また、週何回くらいしていましたか?

【田中協子被告】
・私は音楽教室の受付や家庭教師のアルバイトをしていました。週にだいたい2〜3回くらいだったと思います。

【検察官】
 あなたはこの「朝鮮文化研究会」というサークル活動を通じて、「北朝鮮に行ってみたい」と思いましたか?

【田中協子被告】
・そんなことは考えもしませんでした。その頃の私の興味は、韓国民主化とか絵本の世界とかそういったことでした。

・北朝鮮よりも、私は高校生の頃から東欧にあこがれて「行きたい」と思っていました。

【検察官】
 では、あなたはそんなに行きたかった東欧、東ドイツに行きたかったそうですが、何故断念したのですか?

【田中協子被告】
・たまたま姉の知人が東ドイツに留学することに詳しくて、「ドイツ語」が話せることが前提であったので、断念しました。私は大学時代に英語と中国語を習い、日常会話には困らない程度にできました。しかしドイツ語は自分には難しくてできませんでした。

・それでもやはり東ヨーロッパを見たいという気持ちが強くて、次第に「ブルガリア」に関心がいきました。

続く

ひなまつり
( 2005.3.3,木 )
 今日は女の子の日。

 あおいのママの実家でも、おひなさまが飾られています。私が子どもの頃、お友だちの家では何段飾りの立派なおひなさまを飾っていて、とてもうらやましかった記憶があります。

 私のおひなさまは、ガラスケースに入った小さなおひなさまでした。私が長女だったので、初節句に父方の祖母が買ってくれたそうです。私が生まれた頃、我が家は狭いアパート暮らしで、孫がたくさんいたから、小さなものにしたのだと思います。

 もうかなり傷んでいるけど、祖父母や両親の思いがこもっている大切なおひなさまです。今は亡き祖父母、母に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう。

 写真のおひなさまは、昨年私の父が買ってくれたものです。本来なら私たちの娘あおいの初節句になるはずでした。このおひなさまをお店で見つけた時「わが子に見せてあげたい」と思いました。それで父にたのんで買ってもらいました。お父さん、本当にありがとう。

 私が祖母におひなさまを買ってもらったように、わが娘にも唯一の祖父である父に買ってもらえたら、きっとあおいが喜ぶと思いました。

 私たちの娘あおいは、ずうっとお空にいて、これから先もお祖父ちゃんに何もねだったりしないから・・・。


*あおいのママの田舎に伝わる「つるし飾り」をイメージして作られた歌です。

『娘へ』 

記憶の片隅に 埋もれかけていた
母との思い出 今よみがえる

港の町に 伝わる風習
小さな飾りを 雛壇に

這い子人形 うさぎ 三番叟
はぎれで作った つるし飾り
母の想い届く 小さな贈りもの


私も祈りたい 眠りつくこの子に
幸せになるように 苦労せぬように

思いをこめて 一針一針と
やさしい面影 重ねながら

決して華やかじゃないけど
親心(こころ)で作った つるし飾り
母の想い届け 小さな贈りもの

這い子人形 うさぎ 三番叟
親心(こころ)で作った つるし飾り
母の想い届け いとしい我が娘

http://www.izu-net.com/
http://www.izu.co.jp/~hamabe/new_page_4.htm

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